誤解の理由


今日が終わる前に、一目で良いから彼女に会いたかった。
玄関口に上がると、珍しく宴を催している客もいないのか、夜四つを迎えた寺田屋はやけに静かだった。普段であれば、まだ誰かしら起きている時刻なのだが、障子紙から明かりが透けている部屋はひとつもない。それだけに、見慣れた廊下が一層薄暗く、時折軋む床板の音が耳障りに聞こえた。

(彼女はもう、夢の中だろうな)

寝顔を見られればそれでいい。
しかし、そうは言ってもその事実に気落ちしている自分がいるのも確かだった。彼女と最後に話をしたのはいつだっただろう。すぐに帰るからと言って、無理に笑顔を作る彼女を抱き寄せたことは昨日のことのように覚えているのに、それがいつだったかが思い出せないということは、かなり日が経っているということなのだろう。

彼女の声が聞きたい。桃色の頬に触れて、あの柔い身体を抱き締めたい。

彼女の名前が会話に出る度、そんな衝動に駆り立てられた。
だから、この数日は出来るだけ彼女のことを思い出さないよう、朝も晩も仕事にかまけていた。一旦彼女に心が向いてしまうと、情けないことに他のことが全く手に付かなくなってしまうからだ。
しかし、皮肉なことに却ってそれが功を奏し、こうして予定より早く仕事を終えることが出来たのだった。

(僕も単純な人間だな)

廊下を右左に進み、自室まであと僅か。だが、最後の角を曲がり切る手前で、僕の足はその場で固まってしまった。

「わざわざ、ありがとうございました」

薄明かりに伸びた影はふたつ。
ひとつは間違いなく彼女のものだ。
そして、もうひとつが誰のものであるかも、声を聞かずともすぐに分かった。

「夜遅くにすまんかったの。じゃが、今夜はこれでぐっすり眠れるといいのう」
「きっと大丈夫だと思います。あ、でも……。龍馬さんは…?」
「ワシのことは気にせんでええ」

ふたりがどんな会話を交わしていたのか、定かではなかった。そうこうしている間に、龍馬は自室へと姿を消し、後には包みを抱えた彼女だけが廊下に残されていた。すぐに踵を返すかと思いきや、包みを横に置き、縁側に腰を下ろした彼女は、そのまま大柱にもたれ掛かり月を眺め始めた。

「そんな薄着で外に出るんじゃない」

こんな第一声を掛けるつもりではなかったのに、つい声が尖ってしまった。その声に肩を上下させ、勢い良くこちらを振り返ると、彼女の瞳が大きく見開いた。

「武市さん?」

驚く彼女の隣に膝を曲げ、そっと頬に触れると心地好い温もりが伝わってくる。しかし、当の彼女はというと、どういうわけか時が止まってしまったかのように硬直したままだ。

「…………」
「どうした?」
「…ほんとのほんとに武市さんですが?」
「本当の本当に僕、だよ」
「どうして…?だってお仕事は……」
「予定より前倒しで終わらせた。…少しでも早く君に会いたくて」

不思議なもので、彼女の顔を見た途端、先程の苛立ちや不安が瞬く間に消散していく。
頬に重ねられた手はやはり少し冷たく、それを叱責しようとすると、先に小さな体躯が胸に飛び込んできた。

「武市さん…!」

まるで僕の存在を確かめるかのように。
背中に回った小さな手の力強さに、驚きと嬉しさが入り混じり、つい口許が緩んでしまった。

「長く留守にしてすまなかった。変わりなかったかい」
「はい。私はずっと元気にしてました」
「………。そこは、『寂しかった』って言って欲しかったんだけどな」

少しだけ身体を離すと、彼女の瞳が微かに潤んでいることに気が付いた。明かりに濡れた瞳が反射し、その美しさに心臓が跳ねる。

「…寂しかったです……」

顎を持ち上げ、唇を重ねると、彼女もたどたどしく舌を絡めてくる。以前は触れただけで真っ赤になっていたのに、随分口付けも上手くなった。
他の男を知らない彼女が少しずつ僕に染まっていく度、独占欲も日増しに大きくなっていく。


ー龍馬さんには、ああ言ったけれど。
不安と寂しさで胸が押し潰されそうで、今夜もすぐには眠れそうになかった。すぐに帰るからと言って、優しく私を抱き締めてくれた武市さん。それでも、ひとりになると嫌な想像ばかりが頭を巡って、それを振り払うために、いつしか彼の無事をここで祈ることが日課になっていた。
だから、今夜彼を見たとき、私はきっと夢を見てるんだと思ったの。けれど、触れた唇の熱さは確かに武市さんがここにいることを教えてくれて、途端に我慢していた気持ちが溢れてしまった。

「君は本当に…可愛いね」

漸くここが外だったということを思い出し、慌ててその腕からすり抜けようとするけれど、武市さんは更に強く私を抱き締める。

「だ、誰かに見られちゃいます……」
「もう誰も起きていないよ」
「でも、まだ龍馬さんが起きてるかもしれないです」

そう小さく抗議すると、武市さんは私の唇を人差し指で塞いでしまう。
そして「そういえば、龍馬は君に何の用があったんだい?」
と問いかけられ、私は後ろにあった柱に押さえ付けられてしまった。

「すぐに答えられないということは、僕には言えないこと?」
「ち、違います…!龍馬さんは、香炉を持ってきてくれただけですよ」
「…………」
「…?」
「では、これは?」

突然首筋を撫でられ、身体がびくっと跳ねる。何のことを言っているのか、聞こうとしても武市さんの顔が怖くて、私は言葉が出なくなってしまう。

「…赤くなっている。君はまさか、龍馬と」

首筋が、赤いー?
そこまで言われて、やっと武市さんが怒っている訳が分かった私は、思わず笑ってしまいそうになった。

「もう!誤解しないでください。…これは、昼間虫に食われたんです」
「…え?」
「最近、よく蚊に刺されてしまって。それを龍馬さんに話したら、蚊は煙が嫌いだから、香を焚いたらどうかって言ってくれたんです。そしたら、使わないのがあるからって今夜持ってきてくれたんですよ」

そう言い終えると、武市さんの頬がほのかに赤くなった。いつもは見せることのない、子どものような顔が可愛くて、私の口許はまた緩んでしまった。

「こっち向いてください、武市さん」

両頬を包み込みと、武市さんは少しばつが悪そうに微笑んだ。

「…僕は君のことになると、本当にだめだな」

だけど私は、本当は少し嬉しかった。理由がなんであれ、武市さんが私を心配してくれたことには変わりがない。それだけで、寂しかった時間があっという間に埋まっていくような気がした。

「武市さん、私香炉の使い方ってよく分からないんです。それと…出来たら武市さんが普段使っているお香と同じのが使ってみたいんです…」

目を合わせるのが恥ずかしくて、下向きにそう告げると、身体がふわっと宙に浮く。

「…もしかして、誘ってくれているの?」
「そ、そういうわけじゃ…!」
「いいよ、僕が教えてあげる。だから今夜は」

このまま僕の部屋においでと囁く甘い響きに逆らえるはずもなく。
今度は妖艶な笑みを浮かべた武市さんに、私は小さく頷いた。

「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -