片月行路(1)


言い様のない苛立ちと不安に襲われるようになったのは、三日目を過ぎた頃からだった。

この邸の門を潜ってから、月は何度姿を変えただろう。
確か最初の晩は、見事な満月が昇っていた。それが日に日に欠け、徐々に満ち、そして気が付けば今宵は、また美しい弓なりを描いている。

懐に忍ばせていたそれを取り出すと、淡い月明かりが彼女の姿を浮かび上がらせた。そこに写る“ほとがら”の月華は、少し緊張した面持ちでこちらに笑顔を向けている。
だが、いくら“ほとがら”の彼女をなぞったところで、伝わってくるのは固く冷たい感触だけだ。

「月華…」

ぽつりと落ちた愛しい名前は、返事もなく夜気に飲み込まれた。
今までとて、仕事で寺田屋を空けることは幾度もあった。しかし、今回ばかりはどうにも彼女のことが頭から離れなかった。

『気を付けて行って来て下さいね。私のことは心配しないで下さい』

その理由の行き着く先は、月華の些細な変化にあった。
ここ薩摩藩邸での泊まり込みが決まったとき、彼女はいつもと同じ笑顔で僕を送り出してくれた。だが、却ってその笑顔は、僕の心に一抹の不安を芽生えさせた。

『月華』
『?はい』
『そんな不安そうな顔をしなくても、すぐに帰って来るよ』
『えっ…!わ、私また顔に出ちゃってますか…?』

そうだ。こんなとき今までの月華だったら、明らかに無理をして笑顔を作っていた。その不安が入り混じった顔を見る度、心が痛くなり、同時に彼女が愛おしくなった。だが、最後に見せた彼女の笑顔には、不自然さも不安の翳りもなかった。

(もう僕のことはさして心配していないということか…?それともまさか…他に男が…)

こんな女々しいことを考えている自分に、つくづく嫌気が差してくる。
彼女のことを信じていないわけではない。けれども、僕は怖いのだ。
いつか月華を他の男に奪われてしまうのではないか。
常に付き纏っているその不安が、疑心を更に増幅させている。

(…今頃、月華はどうしているだろう)

“ほとがら”をもとに戻し、隊服のまま布団に倒れ込む。

月華。君が恋しい。
出来ることなら、何もかも放り出して君に会いに行きたい。骨が軋むくらい強く抱き締めて、その柔らかな肌に爪を立てたい。

自制心を制御することに関しては、人一倍自信があった。だが、そんなものは過信に過ぎなかったのだ。

月華―。君のことを考えただけで、俺は恋に溺れたただの情けない男になってしまう。

「…武市さぁ」

障子に黒い影が映り込んだのは、そんなことを考えていたときだった。
手が自然と刀へと伸びる。夜更けの報せは、総じて吉報だった試しがない。

「半次郎殿。何かあったのか」
「お客さぁが来てもす。お通ししても良かですか」
「客?…分かった。通してくれ」

刀を脇へ退け、隊服を軽く整える。
一体誰だ。仮に龍馬や以蔵ならば、そんな言い方はしないはずだ。尤も、招かれざる客の心当たりならごまんとあるが、彼等がこの屋敷にそう易々と出入り出来るとも思えない。

「失礼します」

りんと鈴を鳴らしたような可愛い声。
まさか、そんなはずは―。

「半平太さん」

姿勢を正すことも忘れ、僕は目の前の彼女を呆然と見ていた。
その様子が余程おかしかったのか、くすりと微笑んだ月華は、僕の顔の前で手を上下に動かし始めた。

「半平太さん?はんぺっ……きゃっ!」

手首を引っ張られた弾みで、小さな身体が前のめりに傾く。それを胸許に受け止めると、甘い香りが鼻を擽った。

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