片月行路(3)
「…やっと笑ってくれました」
暗がりに浮かぶ白い手が頬へと伸びる。その目には、薄らと涙が滲んでいるように見えた。
「あの日の私だったら…どきどきして何も言えませんでしたけど…今なら言えます」
頬を撫でていた手が首許へと回り、一瞬身体が寒気(そうけ)立つ。
「嘘です」
「え?」
「本当は、大久保さんに来いって言われたとき、一度断ったんです。だって、半平太さんのお仕事の邪魔をしたくなかったから…。せっかく精一杯の笑顔で見送ったのに、今会ったら何の意味もないと思ったんです。でも、私やっぱり駄目でした」
力の抜けた身体に彼女の腕が絡み、景色が静かに反転する。
輝くばかりの片割れ月を背にした月華の顔からは、大粒の涙が滴り始めていた。
「今、もしかしたら半平太さんは他の女の人といるんじゃないかって…。もう私なんかに愛想を尽かしたんじゃないかって考えたら怖くて…。だから好きって言って欲しくて、抱き締めて欲しくて来たのに、それなのにっ…」
「月華…」
「…でも、もう半平太さんの嘘はお見通しです」
着物の袖で涙を拭った彼女は、赤い目のままに僕に微笑みかけた。
「本当は、早く休めなんて思ってなかったでしょう?」
「なっ…!嘘じゃない、僕は本当に…」
「それなら、どうして私の目を見てくれないんですか?」
濡れた瞳に覗き込まれ、喉がからからに渇いていく。そんな僕を見て、彼女はまた口許を綻ばせた。
「やっぱり。ね、あのときどうして早く休めって言ったんですか?」
「………」
「もし私が何か言ったせいなら、教えてくれないと直せません」
「…君が…大久保の名前ばかり口にするからだ」
「え?大久保さん?」
不思議そうに瞬きを繰り返していた月華は、暫くして今度は嬉しそうに笑い始めた。
「…だから言いたくなかったんだ」
「ふふっごめんなさい。でも…嬉しいです…」
「………」
「怒らないでください、半平太さん。笑ってしまったお詫びに、半平太さんの言うことひとつ聞きますから」
「………」
「私が好きなのは半平太さんだけですよ。昔も今もこれからもずっと」
「……本当に?」
「はい、本当に」
「なら、その証しが欲しい」
透き通るような白い肌。その首許に吸い付くと、赤い花びらが色付く。
「やっ…駄目です、こんなところでっ…」
「言うことを聞くと言ったのは君だよ」
「そ、それはそうですけど……」
「それとも、僕に見られてはまずいことでもあるのかな」
「……そんなこと言うなんて…意地悪です…」
それを言うなら、余程月華の方が意地悪だろう。
僕の心を掻き乱した上、本心まで露呈させるとは。彼女の方が一枚上手になる日は、そう遠くないかもしれない。
「半平太さん、今度私にも“ほとがら”を貸してください」
「駄目。あれは僕のもの」
「でも、私だって何か半平太さんを思い出せるものが欲しいです…」
「これから、いくらでも思い出せるようにしてあげるよ」
今宵の月には感謝せねば。
お陰で、羞恥に染まった彼女の顔を心ゆくまで楽しめそうだ。