第六話 武市


瞬きの先に薄らと見える雨の爪痕。
瞼を上げたら、きっといつもと同じ景色が映るはず―。
そんな僅かな希望は、昨日までなかった天井の染みを見つけたことで脆くも打ち砕かれた。

(やっぱり…私の部屋じゃない…)

寝返りを打つと、微かに触れるあの人の匂い。
それを振り切りながら、掛け布団を剥ぎ、辺りを見回すも以蔵の姿はない。

『―お前はここで休め』
朦朧とした意識の中で最後に聞こえたのは、静かに障子を閉める音。
布団に潜り込むと、全身に鳴り響く鼓動が眠りの邪魔をして。
周りが静かであればあるほど、今夜の出来事が鮮明に瞼の裏に浮かんだ。

(どんな顔して会ったら良いの…?)

鏡に背を向けたまま着崩れた浴衣を直し、私はそうっと障子に手を掛ける。
まだ薄暗い廊下には、幸いなことに人の姿はなかった。


あの四人の中から、誰か一人を選ぶ―。
井戸に寄り掛かり、顔に付いた水滴を拭った私は、そのまま何をするわけでもなく空を見上げる。雲がゆっくりと流れていく様子を眺めながら、私は着物の合わせ目をきゅっと握った。

「小娘さん」

反射的に肩がびくっと震え、手拭いが足許に落ちる。
それを拾うのも忘れて、恐る恐る顔を後ろに向けると、真一文字に結ばれた唇がゆっくりと引き上がった。

「たけち…さん」
「おはよう。今日も早いね」

片手に竹刀を携え、私の前で立ち止まった武市さんは、もう一方の手を後ろに回す。音もなく解かれたしなやかな髪は風に靡(なび)き、私の頬をそっと掠める。

「その様子じゃ、知ってしまったみたいだね」
「あ……」
「嫌な予感はしてたんだ。君が龍馬に連れていかれた時から」

私の髪に指を通しながら、武市さんは目笑を浮かべた。その瞳に映る私は、戸惑いつつも体温が上昇していくのを感じていて―。

「武市さん…私、どうすれば良いんでしょう……?」

途切れ途切れに口にした問いに、武市さんは黙ったまま首を傾げる。そして頭をぽんぽんと二三度撫でると、私をそのまま抱き寄せた。

「何も悩む必要はない。自分の心に正直になれば良いことだ」
「でも…」
「思い出してごらん」

不意に伸びた手が首筋に触れ、冷えた指が昨晩の痕をなぞっていく。

「小娘さんは、誰に触れられたときが一番気持ち良かったんだい?」
「…!」

一見、女性のような整った顔立ちと揺らめく長い髪。けれど、腰に回された腕と広い胸は、確かに男の人のもので。思わず私は、その立ち姿に魅了されてしまう。

「君の身体がよく憶えているはずだ。…思い出せないのなら、協力してあげようか」
「あ…あのっ……」

慌てふためく私から手を離し、武市さんは髪紐を口に銜(くわ)える。そして慣れた手付きで髪を纏めると、楽しそうに目を細めた。

「朝はまだ冷える。早く邸の中に入るんだよ」
「は、はい…」

何事もなかったかのように去っていく背中。
『思い出せないのなら、協力してあげようか―』
一分の隙もない後ろ姿を見つめながら、私はその台詞をどこか本気で受け止めていた自分に気が付いた。

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