矯抑(2)


薩摩藩邸は迷子になりそうなくらい広いけれど、その分沢山の人が働いている。だから、私の出来る仕事はいつもほんの僅かしかなかった。

「小娘さま、手が荒れうよな仕事は止めてしてたもんせ。大久保さまに叱られもす」
「そんな、私なら大丈夫ですよ」
「いけません。いけんしてもと言うのなら、こよ」

掃除をしていた私を止めた女中さんは、自分が持っていた着物を手渡す。その柄は、私にも見覚えがあった。

「大久保さまのお召し物ござんで。畳んでおいてしてたもんせ」
「は、はぁ…。わかりました」

女中さんに叩(はた)きを渡した私は、仕方なくそのままあの人の部屋へ歩き始めた。

(どうしてなのかな…)

着物を畳みながら、私は一人大久保さんの部屋で考える。
毎日安心して眠ることが出来て、着る物や食べる物に不自由することもない。それは他の人が見たら、羨む生活なのかもしれない。

(だけど…)

この藩邸から一歩も出ることなく、守られているだけなのが苦しい。私だって、あの人の役に立ちたいのに―。

「…あれ?」

ふぅと一息吐き、立ち上がろうとした瞬間、文机に紙の束が置かれていることに気が付く。何て書いてあるのか私には全然読めないけれど、夕べ大久保さんにお茶を持ってきたとき、こんな文章を書いていたことを思い出した。

(もしかして…忘れ物?)

それなら早く届けてあげないと、今頃困っているかもしれない。けれど、頼みの綱である半次郎さんは、大久保さんと一緒に行ってしまった。

(どうしよう…。でも…)

『余計なことはするな』
その言葉を忘れた訳じゃなかったけれど、私はこっそり裏門へと急いだ。


賑やかな人通りを縫うように歩きながら、私は長州藩邸への道を思い出していた。そんなに複雑な道のりじゃなかったはずだけれど、久し振りに歩く街並みはどれも同じように見える。

(ここ…どっちだったっけ…?)

胸に抱えた書類を落とさないよう、私は左右の通りを交互に見る。けれど、乱れた息を整えていたそのとき、目の前がふっと真っ暗になった。

「んっ!?」
「薩摩藩邸から出てきた女だな」

路地に身体を引き摺り込まれ、口を手で塞がれてしまった私に相手の顔は見えない。それでも、書類だけは何とか落とさずに済んだ。

「それは大久保への届け物か…?」
「ち、違いま…す…」

自由になった口と引き換えに、首に押し当てられた冷たい感触。暗い路地の中でも、それは不気味な光を放っていた。

「……。まぁいい。それを寄越せ」
「あ…」

大声を出せば誰か来てくれるかもしれない。そう頭では分かっていても、声が出ない。

「お前…死にたいのか」

唇を噛み、ぎゅっと書類を抱き締めると、嫌な感じが首筋を伝う。それでも黙り込む私に、男はちっと舌打ちをした。

「…悪く思うなよ」

勝手に外に出て、書類まで盗られたなんて知ったら、大久保さんはどんなに怒るだろう。そんな姿が頭に浮かんだとき、身体に大きな衝撃が走った。


「……ごめんなさい」

鈍(にび)色の三日月が空に浮かび、ひやりとした夜風が障子の隙間を吹き抜けていく。それと同じように、目の前に座っている彼の口調もまた冷ややかだった。

「誰が勝手に外に出て良いと言った」
「それは…。だって、てっきり忘れ物だと思ったから…」
「言い訳は良い。お前は半次郎が来なかったらどうするつもりだったんだ」

薩摩藩邸に戻る途中だった半次郎さんに見つけられ、私は何とか事なきを得ることが出来た。だけど、それを知った大久保さんは、険しい目付きに怒りを滲ませていた。

「言い付けの一つも守れんとは。呆れて物も言えんな」
「……!」

迷惑を掛けてしまったのは分かっている。だけど、私なりに役に立ちたかっただけなのに―。
そんなもどかしい感情が溢れ、つっと涙が頬に零れた。

「私だって…大久保さんの役に立ちたいんです……」
「……」
「どうして外に出ちゃ駄目なんですか?確かに今日は迷惑掛けちゃいましたけど…。だけどっ…」
「…口を閉じろ」

涙を拭っていた右手を取り、大久保さんは私の唇に親指を押し付ける。その歪んだ瞳には、涙でぐしゃぐしゃになった私の顔が映っていた。

「そんなに言うのなら、役に立たせてやる」
「え……?」
「帯を解け、小娘」

綺麗に整った彼の薄い唇。
それは、蕩けるような夜の始まりを告げた瞬間だった。

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