桜結び(1)
ふわり、と肌を掠める風が心地好い。
青々とした空に優しく滲む満月。
それに重なるように、舞い踊る桜。
そんな幻想的な夜空を見上げていると、地上の喧騒を忘れてしまいそうになる。
(きれい……)
春風に流されていく一枚の花びら。
その行方を目で追っていると、あの人の横顔が視界に映る。けれど、どんなに見つめたところで、私達の視線が絡むことは決してない―。
(まだ、半平太さんの隣に…)
楽しそうに口を動かしながら、彼のカップにビール瓶を傾ける女性。
このお花見が始まってからというもの、半平太さんの隣にはずっと同じ女性が座ったまま。
私は彼女の名前を知らない。
ただひとつ分かるのは―きっと彼女は半平太さんに―特別な想いを抱いているということだけ。
(半平太さん、あまりお酒強くないのに…。そんなに注いだら…)
「…気になる?」
「え?」
雑踏の中に聞こえる、小さな笑い声。
私はどれぐらいの間、半平太さんのことを見ていたんだろう。
隣の桂さんのカップが空になっていることにも気付かずに。
「あ…ごめんなさい。武市さん、あまりお酒が強くないみたいですから、ちょっと気になって…」
「なにっ!お前、武市のことなんか見てたのか!」
思わず、ビールを持つ手がびくっと震える。
けれど、逃げる間もなく、目の前に座り込んだ高杉さんが私の肩を掴んだ。
「普段散々こき使われてんだろ?あいつのことなんか放っとけ!」
「そ、そんなこと…!武市さんはいつも優しいですっ!ってそれより高杉さん、飲みすぎですよ」
「小娘さんの言う通りだ。ほどほどにしておくんだね」
「それに」と言いながら、桂さんは高杉さんからお酒を取り上げた。
「放っておける訳がないだろう?武市君は、小娘さんの直属の上司なんだから」
『上司と部下』
その私達が実は恋人同士だなんて―誰が疑うだろう。
「そうですよ…って高杉さん、聞いてます?」
いつの間にか顔を伏せ、黙り込んでしまった高杉さんをそっと覗き込む。けれど次の瞬間、ふっと膝の上が重くなった。
「た、高杉さんっ」
「お前の膝は気持ち良いな」
「何言ってっ…は、早く起きて下さい!」
慌てる私を余所に、高杉さんは膝に顔を擦り寄せる。
服越しに動く髪が擽ったい。
そんなことに気を取られていると、やがて心地好さそうな寝息が聞こえてきた。
「もう…。高杉さんったら…」
屈託ない寝顔は、まるで子どものようで。
社内でもやり手と噂される高杉さんの意外な一面に、思わず顔が綻んでしまう。
「…小娘さん。申し訳ないんだが…買い物を頼んでも良いかな」
「はい。あ、でも高杉さんが…」
「晋作ならちょっとやそっとじゃ起きないよ。…それよりも、視線が痛くてね」
「……?」
「ふふ。それじゃ頼んだよ」
道にひしめく人の波は、夜が深まるにつれますます賑わいを見せている。ライトアップされた桜を横目にしながら、私は桂さんから渡されたメモを開いた。
(桂さん、屋台が好きなのかな?ちょっと意外かも)
隙間を縫いながら屋台のある方を目指すも、なかなか前に進むことが出来ない。それでも漸く波から抜け出せたと思った途端、急に体が後ろへよろめいた。
(きゃっ……!?)
突然のことに、声も上げられなかった。
腕を引っ張られ、足が縺(もつ)れそうになりながら、私は訳も分からずその後ろを付いていく。
途中でそれを振り切れるはずがなかった。
だってその後ろ姿は、大好きな彼のものだったから。