秘密の共有(1)


この可愛い年下の女性に、僕はもう何度心を掻き乱されたことだろう。時に大胆な名無しさんの言葉や行動は、僕の思考をいとも簡単に停止させる。

『交換、しましょうか?』

差し出されたカップの縁(ふち)に微かに残る桃色のあと。それは、紛れもなく彼女の唇に艶めく色と同じものだった。

(参ったな…)

そのカップはたった今まで彼女が口にしていたのだから、当たり前といえば当たり前のことだ。
けれど、それが好意を寄せている女性のものとあれば、僕としては意識をせずにはいられない。

(くだらないことを…)

名無しさんにしてみれば、僕を気遣ってカップを交換してくれただけで、他意などないのだろう。
現に目の前の彼女は、何のためらいもなくそれに口を付け、おいしそうにコーヒーを飲んでいる。

(この状況に感謝しているのは僕だけ、か)

今まで自分からコーヒーを買おうと思ったことなど数えるほどしかなかった。そのほとんどの理由は、飲みたいからではなく、この苦さが眠気覚ましには打って付けだったからだ。そして今日も、この逆上(のぼ)せ上がった気持ちを少しでも落ち着けてくれるのでないかと期待していたのに、それが裏目に出てしまった。

(なんだ、この苦さは…!)

普段飲み慣れていないせいなのか、それともこのコーヒーが特別苦いのかはわからなかった。だが一口喉に流してわかったのは、とても僕には飲めた代物ではないということだ。

『…課長?』

けれど、優しい彼女にはそれを気付かれたくなかった。
だから出来るだけ平常心を心掛けて返事をしたつもりだったのだが、名無しさんはそんな僕の些細な変化も見逃さなかったらしい。

(結果的に、僕には好都合だったわけだが…)

彼女がくれたコーヒーは、その言葉通り先程とは比べ物にならないくらい甘かった。けれど、その味より僕が気になったのは、口を付ける前に微かに鼻を掠めた桃のような匂いだった。

(これは…)

匂いの先はすぐにわかったが、僕は敢えてそれを考えないように努めた。だが、それでもつい名無しさんに目を向けてしまうと、ふと彼女の顔が綻んでいることに気が付いた。

『いえ、やっぱりコーヒーはおいしいなって思いまして』

唇に笑みを滲ませた彼女は、僕を見つめると再びカップに口を近付ける。
その瞬間、桃に似たあの甘い匂いが空気に揺れた気がした。


「雨、少しは弱まったみたいですね」

書類を胸に抱え、僕の後ろにある窓に視線を向けた名無しさんが、ほっとした様子で相好を崩す。

「ああ。そろそろタクシーも捕まりやすいかもしれないが…二台となると大変だな」

彼女から受け取った書類を仕舞い、背広に手を通すと、思わず苦笑いが浮かぶ。それは今口にした言葉に対するものではなく、このささやかな幸せが終わってしまうことへの名残惜しさからだった。

「あ…一台で大丈夫ですよ、課長」

その言葉に顔を上げた僕と視線が合うと、名無しさんの形の良い唇が魅惑的な弧を描いた。

「一緒に帰りましょう?」

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