心想い
どうしてあの時、私は会社に引き返してしまったんだろう。今更戻っても、もう課長はいないかもしれないのに。
(まだ、いますように…)
気が付けば、頭で考えるより先に足が勝手に動いていた。その理由は自分でもわからなかったけれど、ただ別れ際の課長の横顔が、私の胸をきゅっと締め付けていた。
『生憎、最寄り駅の電車が止まってしまってね…―』どこか切なそうなその表情を、私は今まで見たことがなかった。
もしかしたら、本当にあの時電車は止まっていたのかもしれない。そう思う一方で、なぜ課長がそんな顔をしたのか考えずにはいられなかった。
(もしかして…私と帰るのが嫌だった…とか)
そんなことがふっと過り、私の足は自然と止まってしまう。それと同時に、視界がじわりと滲み始めた。
(そうだったら…どうしよう…)
こんなことをしたら、ますます嫌われてしまうかもしれない。
そんな思いが膨らみ、やっぱり駅に戻ろうかと逡巡していると、止めどなく降り注いでいた雨がすっと途切れた。
(え…?)
「…小娘さん?」
聞き覚えのある声に顔を上げると、目の前の人の訝しそうな視線が突き刺さる。その表情を見返しながら、私は意外な出会いに瞳を瞬かせた。
「桂さん…」
「奇遇だね。何かあったのかい?」
傘を差し出してくれた桂小五郎さんは、前部署の上司である高杉さんの幼馴染みであり、大切な取引先の課長でもある人だった。
「あ…えっと…会社に忘れ物をしてしまって…取りに戻ろうと思って…」
「忘れ物?」
今更ながらずぶ濡れで走っていたことを自覚した私は、「はい」と小さく答えた。それを聞いて押し黙ってしまった桂さんは、暫くするとくすりと笑い声を漏らした。
「それで傘もささないで走っていたのかい?」
「あ、あの…つい夢中で…」
「そうか。…余程大切な物なんだね」
(……!)
その言葉にはっとして彼を見上げると、桂さんはいつものように目を細めた。そんな彼を見ているうちに、気が付けば私の顔にも笑みが浮かんでいた。
「はい。とっても大切なんです。だから私、戻らなくちゃいけないんです」
「…そう。だが傘はちゃんとさして行きなさい。風邪をひいては大変だ」
「ありがとうございます」と一礼し、私は手許の傘を開く。
ついさっきまで心に蟠(わだかま)っていた迷いは、この頃にはもうすっかり消えていた。
『…余程大切な物なんだね』例え片想いでも、武市課長は私にとって大切な人。
あの言葉が嘘でも本当でも関係ない。
今はただ、武市課長に会いたい。
その一心で、私はここに戻ってきた。
『駅に行ったら、電車が止まっちゃってたんです』だからあの時、ひとりで残る武市課長を見て欲が出てしまった。
もし許されるのなら、もう少しだけふたりでいたいって―
「…―名無しさん、僕は…」
痛いくらいに高鳴る私の鼓動を掻き消すように、一段と大きな雷鳴が轟く。
その音に無意識に身体を震わせると、ふっと室内が明るくなった。
「あ…」
思わず視線を天井に向けようとした瞬間、課長の瞳が私を捉える。その余りの近さに、私の頭は急速に沸騰を始めた。
「ご、ごめんなさいっ課長!!今のは忘れて下さい…!」
「名無しさ…」
「わ、私…コーヒー買ってきます!」
矢継ぎ早に話し終えた私は、課長の返事も待たずに廊下へと飛び出した。
とてもじゃないけれど、今の私に課長の顔を直視できる勇気はなかった。
(武市課長…変に思ったよね…)
暗闇に託(かこ)つけてあんな質問をしてしまったことを後悔しながら、私は自販機の前で項垂れていた。
それでも溜息を吐きつつ顔を上げ、メニューに目を向けると、はたとあることに気が付いた。
(そう言えば「これ」、どうしよう)
今更聞きに戻るのも恥ずかしいけれど、かといって課長の好みもわからない。途方に暮れ、どうしようかと暫く考え込んでいると、やがて私の頭にあることが閃いた。
(それなら…こうしちゃおう)
ピッとボタンを押す音と同時に、カップにコーヒーが注がれていく。
その様子を眺めながら、私はこっそり口許を緩ませた。