恋煩い
ガラス張りの空間から見る土砂降りの雨は、遠目から見てもアスファルトを激しく打ち返しているのが分かる。
そんな景色から階数表示に視線を移すと、エレベーターは途中の階に止まることなく下降を続けていた。
「ねぇ、以蔵」
少し距離を空けて並んで立つ以蔵に声を掛けると、彼の横目が私を捉える。けれど、黙ったまま続きを促す以蔵を見て、私はそれを言い出せなくなってしまった。
「ううん、何でもない」
「…なんだ。おかしな奴だな」
言葉とは裏腹に目許を和らげた以蔵は、その顔に微苦笑を浮かべていた。
中には彼のことを取っ付きにくいと敬遠する人もいるけれど、本当はとても優しいことを私は知っていた。
「ほら、着いたぞ」
チン、と小さな音とともに身体が微かに揺れると、目の前のドアがゆっくりと開いていく。するとそこには、出入口の前でざわめくたくさんの人で溢れ返っていた。
「す、すごい人だね…」
「ああ、皆雨が弱まるのを待っているのかもな」
けれど、その勢いは弱まるばかりか、寧ろさっきよりも悪化しているように見える。私達はその様子を暫く眺め、二人同時に傘立ての鍵を取り出した。
「…行くか」
「うん、仕方ないね」
黒い番号札の付いた鍵を片手に握った私は、途中でその足を止めた。それは心のどこかで、言うなら今しかないという気持ちがあったからだった。
(どうしよう…。迷惑になっちゃうかもしれないけれど…でも…)
手のひらに載せた鍵を意味もなく弄りながら、私はその場から動けなくなってしまった。だけどその時、突然ひょいっと手の中にあった鍵が持ち上がった。
「傘置き場も混んでるな。取ってきてやるから小娘はここで待ってろ」
「あ…うん、ありがとう…」
そのまま歩き始めた以蔵の背中を見ながら、私は心の中で溜め息を吐いた。
こんなチャンスは二度とないかもしれないのに、それを口にしたらこの気持ちが分かってしまいそうで怖かった。
「私、ここに残りたい」この部署に配属されて日の浅い私が出来る仕事なんて高が知れている。その仕事ももう片付いて、この天候なのに帰りたくないなんて言い出したら、以蔵は変に思うに決まっている。
『…どうして帰りたくないんだ?』もしそう聞き返されたら、咄嗟に上手い嘘を吐ける自信がなかった。
だってそれは、仕事とは全く無関係な理由だったのだから。
「小娘?どうかしたか」
気が付けば、いつの間にか戻ってきた以蔵が私に傘を差し出していた。
私はそれを受け取ると笑顔を作り、慌てて出入口に足を速めた。
「傘ありがとう。相変わらず酷い雨だなぁって思ってただけだよ。それじゃ、帰ろう」
「…?」
以蔵の返事も待たずに傘を広げると、内側だけに施された色取り取りのフラワープリントが目に入る。私はその中に心なしか赤くなった顔を隠しながら、駅への道を急いだ。
「―おい、大丈夫か」
「う、うん、平気だよ」
容赦なく降り注ぐ雨に負けそうになりながら駅に着くと、ホームは歩くのもやっとなほど人でごった返していた。
到着時刻の表示されていないパネルには絶えず遅延情報が流れ、それを見た私はふとあることに気が付いた。
(あ…そうだ)
ポケットから携帯電話を取り出し、私は電車の運行情報が載っているページを開いた。
(確か武市課長の使ってる駅って…)
以前、たまたま以蔵から聞いた駅名を頼りに、私はその路線を探した。さっきは止まってしまっていたとしても、もしかして今なら動いているかもしれないと思ったからだった。
けれど、やっと見つけたその路線は、私に思いも寄らないことを知らせた。
(え……?)
思わず画面に見入ってしまうと、漸く到着した電車の風に髪が流される。
それと同時に、満員の車内に我先にと人が雪崩れ込んでいった。
「どうした、早く乗るぞ」
「…ごめんね、以蔵。私、会社に忘れ物しちゃったみたい」
「は?おい、ちょっと待…!」
電車に乗り掛けていた以蔵にそう告げると、私は階段を駆け降り、傘も差さずに会社へと引き返した。
そして、握り締めたままの携帯電話の画面には、いつまでも「遅延運行」の文字がその存在を主張していた。