始まりの夜


真面目で優しい名無しさんのことだ。
退社命令が出たとは言え、上司一人に仕事をさせるのは忍びないと思い、戻って来ただけなのかもしれない。
だが、それでも嬉しいと思ってしまっていることに、僕は自分のことながら半ば呆れていた。

「すみませんでした、課長」

少しばつが悪そうな笑みを浮かべて戻った名無しさんは、その頬をまだ赤く染めていた。それが慌てて戻って来たせいなのか、それとも先程のことが尾を引いているせいのか、僕には知る由もなかった。

「それで、何をお手伝いすれば良いでしょうか?」

尚もにこやかに問い掛ける彼女は、ふっとその視線を僕のデスクに向けた。そして、そこに開いたままになっていたファイルを見つけた途端、急にその笑顔を硬直させた。

「あ…。えっと…」

困ったような顔付きで真剣に考え込んでしまった彼女の素直さに、思わずくすりと笑みが溢れる。
僕はデスクの中から別の案件の書類を取り出し、それを彼女に手渡した。

「申し訳ないが、この書類の入力をお願い出来るかな。まだあれは手を付けたばかりでね」
「は、はい、わかりました」

手許の書類に目を通した名無しさんの口から、ほっと安堵の息が漏れる。そして彼女は自身の席に着き、髪をまとめていたリボンのクリップに触れた。

ぱちんと短い音を立ててそれが外れると、ふわふわと柔らかそうな髪が肩に落ちる。雨で少し濡れた彼女の髪は、蛍光灯の光を反射し、いつにも増して美しく見えた。

(…結局、彼女がいてもいなくてもはかどりそうにないな)

真剣な顔で書類を見つめる名無しさんから自分のパソコンに視線を変えると、真っ白な画面が僕を見据えている。
その画面を見つめながら、僕は彼女が吐いた嘘の真意を考えていた。

「―忘れ物を取りに来たと岡田から連絡があったが」

そう口にしてしまうのは簡単だ。
だが、それは不意に訪れたこの幸運を壊すことになるのではないかと思うと、とても聞く気にはなれなかった。

「名無しさん」
「はい、何でしょう」
「コーヒーでも買って来よう。名無しさんは紅茶の方が良いかな」

僕の言葉に彼女は一瞬目を丸くすると、ふふと小さく笑った。

「武市課長、コーヒーお飲みになるんですね。てっきりお嫌いなんだと思ってました」
「!」

そんなところも見られていたのかと思うと、言葉に詰まってしまう。ただ名無しさんは周りをよく見ているに過ぎないと思っても、つい勘違いしてしまいそうになった。

「それなら私が買って来ます。武市課長は待っていて下さい」

そう言って彼女が椅子から立ち上がった瞬間、蛍光灯がちかちかと点滅を始める。そしてそのまま、明かりがふっと消えた。

「…どうやら、停電してしまったようだな」

暗闇と化した室内には、降り頻る雨音だけが響いている。そしてその音に混ざりながら、また遠くで雷が鳴り始めた。

「ひゃっ…!」

稲妻によって一瞬照らされた名無しさんの顔は、耳を両手で塞ぎ、瞳をぎゅっと閉じていた。その様子に、僕は先程彼女が雷に酷く怯えていたことを思い出した。

「…名無しさん」

記憶を頼りに彼女の席まで足を進めると、甘い匂いがまたしても僕を酔わせた。

「…ごめんなさい…」

僕の胸許に身体を預ける彼女の声は、泣いているのかと思ってしまうほど弱々しかった。無意識にその背中を擦ると、名無しさんはぴくりと小さな身体を反射させた。

「あの、武市課長…」

おどおどとしたその声に、僕は自分が何をしていたのか漸く我に返った。
恋人でもないただの上司にこんなことをされ、きっと彼女はさぞや困惑しているだろう。

だが次の瞬間、「すまない」と口にしようとした僕より先に、彼女がその唇を開いた。

「課長は…お付き合いしている方がいらっしゃるんですか…?」

予期せぬその台詞に、思わず頭が真っ白になる。
そんな僕の返答を催促するように、雷雨は更に激しさを増していた。

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