ふたつの嘘(2)
「人当たりが良く、仕事も出来る」
これが、彼女が部署を越えて噂される要因だった。
しかも、その噂には可愛い女性と付け加えられていたのだから、誰もが名無しさんと仕事をしたいと思っていた。
(道理で、高杉さんが手放したがらなかった訳だ)
この異動を希望したのは名無しさん自身だったが、最後までそれを反対していたのは彼女の前部署の高杉さんだったという。しかし結局は彼女の熱意に負け、不満ながらに異動を認めた話は有名だった。
「武市課長?どうかされましたか?」
思い出し笑いを浮かべる僕を見つめ、名無しさんは不思議そうに目を瞬かせた。
「いや。それより、わからないことは岡田に聞くと良い。君とは確か同期だったね」
「はい、ありがとうございます!」
そうにこやかに返事をすると、彼女は用意されていた自分の席に腰を下ろす。その隣では、滅多に感情を露にすることのない岡田が名無しさんに微笑んでいた。
そして彼女は、今日まで不慣れな仕事を懸命にこなしていた。そんな名無しさんの姿を見て、いつしか僕は彼女に心密やかな思いを抱いていた。
(別に何を期待している訳でもないが…)
そう思いながらも、名無しさんが他の男と親しくしている姿を見るのは心が痛かった。だから今夜、嘘とは言えその姿を見ずに済んだことは有り難かった。
(全く…。ちっとも進まないな)
一人になれば難解な案件も片付くと思っていたのに、名無しさんのことばかり頭に浮かんでしまう。
仕方無く僕がそのファイルを元に戻し、帰り支度を始めようとすると、突然ドアがガチャっと音を立てた。
「…名無しさん」
「良かった。まだいらっしゃって」
目を細めて僕を見る彼女の髪からは雨粒が滴り、服も余すところなく濡れている。その姿は、最早傘が役に立たないほど酷い雨空であることを物語っていた。
「駅に行ったら、電車が止まっちゃってたんです。なので、私にもお仕事手伝わせて下さい」
そう言って彼女が僕に歩み寄った途端、雷鳴が室内に轟いた。
「きゃああ!!」
「!」
僕が驚いたのは雷でも彼女の声でもなく、名無しさんが僕に抱き着いてきたことだった。彼女は余程それが怖かったのか、僕の胸許を掴む手を小刻みに震わせていた。
「あ、ご、ごめんなさい!濡れちゃいましたね」
「いや…。気にしなくて良いよ」
はっとして僕から離れた彼女は、バッグの中から自分のハンカチを取り出した。そして俯きながら僕にそれを差し出すと、小さく口を開いた。
「宜しければ使って下さい。私、途中でタオルを買って来ましたので…」
顔を赤くした名無しさんは、ぺこっと頭を下げ、タオルを片手に部屋を出ていった。その姿から手渡されたハンカチに視線を移した瞬間、機械的な音が耳に届いた。
(…一体誰だ)
机上に置いていた携帯電話に手を伸ばすと、そこには「岡田」と表示されていた。
『もしもし、岡田です。まだ会社にいらっしゃいますか』
『ああ、そろそろ帰ろうと思っていたところだが…』
それより、電車が止まってしまったそうだがと聞き返そうとした瞬間、思い掛けない言葉が耳に入ってきた。
『実は、小娘が会社に忘れ物をしてきたと言って電車に乗らなかったんです。それでもうそっちに着いたかと思いまして』
『…忘れ物?』
再び手許のハンカチに目を落とすと、先程の彼女の台詞が頭を過った。
『岡田、電車は大丈夫なのか?』
『電車ですか?はい、遅れてはいますが動いていますね』
そうか、と短く答えた僕は、彼女が会社に着いたことを伝え電話を切った。
今夜、彼女が来たのは仕事を手伝いたいと思ったからなのか…それとも…?
名無しさんの小さな嘘を考え、ハンカチを広げると、ふわりと彼女の匂いが鼻を掠める。
その砂糖菓子のような甘い香りは、僕に小さな幸せをもたらしてくれるような気がした。