恋盗み(後編)


傷付けてしまった―。
あの涙に濡れた顔を思い出す度、胸が酷く疼く。
それは、自分の不用意な一言で泣かせてしまったことへの罪悪感か、それとも―

「…どうかされましたか?」

不思議そうな声色に視線を向けると、見知った女性社員がティーカップをトレーに移している。その二客のうち、自分の前に置かれていたであろうカップは、運ばれてきた時からちっとも減っていない。

「大久保さんは先程お帰りになりましたが…。もうコーヒーは下げて宜しいですか?」
「ああ、すまないね。いつもありがとう」

いいえ、と言いながら、彼女は手際よくテーブルの上を片付けていく。
いつ大久保さんは見合い話のことを切り出すのか。当然のことながら、断りの返事を持ってきたとばかり思っていたのに、ついに彼の口からその話題が出ることはなかった。

「あの、先日少し聞こえてしまったんですが…お見合い、なさったんですか?」
「大久保さんに言い包(くる)められてしまってね」
「わあ!すごい偶然!!私の友達も、この間お見合いしたんですよ」

一瞬目を見開いた彼女は、トレーを持ったまま嬉しそうに話し始める。「ずっと憧れていた人とお見合いすることになったって、すごく喜んでて。羨ましいなぁって思っちゃいました」
「そう。それはうまくいくと良いね」
「はい。あ、でもその人が誰かなのかはずっと教えてくれないんですよ!」

「今夜会ったら教えてくれる約束なんですけど」と少しふくれっ面をしながら、彼女はドアのノブへ手を伸ばす。すると、彼女の手が触れる前にノブががちゃりと回った。

「おいカナ!お茶は俺が下げに行くって言っただろう!」
「きゃっびっくりした!!なによ、だって岡田くんいなかったし、いつまでも冷えたコーヒー置いたままじゃ失礼でしょ?」
「う…」
「それくらいで嫉妬しないの。ほら、じゃあこれ持って」

岡田の手にトレーを渡した彼女は失礼しますと頭を下げる。
あの以蔵が手玉に取られているとは―。意外な姿に、思わず口許が緩んだ。


18時―。
定時に上がることなど、ここ一年あっただろうか。
ロビーを抜け、まだ煌々(こうこう)と賑わう街並みを見ながら、僕は鞄からマフラーを取り出した。

(あ……)

首許のファーに埋まった顔は、薄らとピンクに色付いて。じっとこちらに顔を向けているものの、彼女の視界に恐らく僕は入っていないだろう。

「名無しさん」
「えっ…あっ……!」
「待っ…!!」

思わず掴んだ腕は、折れてしまうんじゃないかと思うほど華奢で。
それでも、この手を離してしまったら、もう二度と彼女に会えない気がした。

「…ごめん」

僕に背中を向けたまま、小さな肩が震える。
もう顔すら見たくないということか―。それもこれも、自分が招いた報いだ。

「嘘、なんです……」

ぽつりと口にした言葉は、忽ち周りの雑音に掻き消されて。
その意味を理解する間もなく、ゆっくりと彼女の手を離すと、焦げ茶色の瞳が僕を見上げた。

「本当は、父に勧められたから、じゃなくて…私が、お見合いするなら、武市さんがいいってお願いしたいんです……」
「え?」

ふわりと笑みを浮かべるも、それはどこか涙を堪えているようにも見え。
それでも、彼女はたどたどしく口を開き始めた。

「想い出が欲しかったんです…。例え叶わなくても、私は…武市さんのことがずっと好きでした……」
「名無しさ…」
「でもっ…もう大丈夫です…。こうしてお話出来ただけで、嬉しかったです…。それに、また父がお見合い話を持って来て」
「え?」
「だから…お会いするのはきっと今日で最後です……。私のわがままに付き合って下さって、本当にありがとうございました」

丁寧に頭を下げた彼女は、そのまま僕を見ることなくロビーへと消えてしまう。
鞄の中から規則的に聞こえる振動音。半ば心を失ったまま携帯電話を手に取ると、そこには思いもしない名前が表示されていた。


元々、相手にされないことは分かっていたのに。
それでもあの人と過ごした僅かな時間が夢のようで、つい欲が出てしまった。
出来るなら、彼も同じことを思っていてくれたらどんなに良いだろうって―。

「今日は、私の方が早く着きすぎちゃったみたい…」

お座敷から離れ、一人庭を歩きながら、私は空に溜息を吐く。
あの人と歩いた道、そして二人で滑ってしまった飛び石。それを見ると、今でもまだ胸が痛い。

「思い出したって…仕方ないのに…」
「小娘、先方が見えたぞ」
「!はい、今行きます」

ふと聞こえた声に足を速め、私は慌ててお座敷へと向かう。
けれど、一度履いていたとはいえ、やっぱり慣れない下駄は足がもつれてしまう。

「きゃっ……!」

前のめりになった身体が地面に倒れ、どすんと大きな音を立てる。
不思議と痛みがないことに恐る恐る目を開けると、蒼い瞳と視線が絡まっって―。

「たけち…さん?」
「全く。君は、この間から転んでばかりだね」
「どうしてここに…?」

何が起きているのか分からず、私は立ち上がることも忘れて武市さんに見入ってしまう。

「君は僕の返事も聞かずに次の見合いをする気だったのかい?」
「え…?」
「大久保さんから電話があった。この間の見合いはどうするのかってね」

どうやら僕は、と続ける武市さんは、そのまま私を抱き締めながら目を細めた。

「君のことが気になって仕方ないらしい。だから、話を進めて欲しいと頼んだんだ」

武市さんは私にとって、ずっと遠い存在で。
けれど、今こうして私を抱いているのは、紛れもなくその武市さんで―。

「今更都合が良すぎるかもしれないが…。僕に小娘のことをもっと教えて欲しい」
「武市さん…」
「駄目、かな?」
「私も…私も、武市さんのことが知りたいです…もっともっと…」

泣かないで、と目尻を拭ってくれる手の温もりに、涙が止まらない。
遠くから聞こえてくる声にも構わずに、私はそれに自分の手を重ねた。

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