恋盗み(中編)
『一目惚れ』
このときまで僕は、その言葉に嫌悪感を抱いていた。
中身も知らずに、相手の何が分かるというのか。一目惚れなんて、所詮見目の美しさに惑わされているだけ―。
周りはどうあれ、僕には一生縁の無い感情だ。
「…君も剣道を?」
「はい。蒼凜高校で三年間。武市さんは先輩ですね」
慣れない下駄で飛び石を乗り越えながら、名無しさんはにこりと微笑んだ。
同じ高校に、同じ部活。
意外な接点に驚きながら、僕は彼女に手を差し出した。
「雪が凍っているから気を付けて。転んだら折角の着物が台無しだ」
「あ…ありがとうございます」
一瞬驚いた表情を見せた彼女は、自分の手を重ねると「冷たくてごめんなさい」と呟く。その言葉通り、名無しさんの手は霜焼けのように薄らと赤みを帯びている。
「私、手が冷たくて。友達にもびっくりされちゃうんです」
「いつもこんなに?それは大変だ」
ふふ、と口を手で隠しながら、名無しさんは笑いを溢す。
―僕は何をしているのか。形ばかりの見合いなのだから、もっと適当にあしらえば良いものを。
「それにしても、君は随分若いのに…なぜ見合いを?」
「あ…え、と……」
急に視線を泳がせ、俯いてしまった名無しさんは、少し言いづらそうに口を開いた。
「ち、父が…決めたんです…。好い人がいるから、と…」
「…そう」
彼女も親のお膳立てでは断れなかったということか―。
それならば、僕が結論を出すまでも無いかもしれない。
その瞬間、何故か胸に痛みが走った気がした。
「そろそろ戻ろう。皆待っているだろうから」
「あ…もうそんな時間、ですか…」
互いに望まない見合いなのだと。
分かったところで、何を憂う必要があるのだろう。
「た、武市さん…前っ……!」
「え?」
ふいに足を乗せた日陰の飛び石。
その石に残っていた雪が凍っていたことを、上の空でいた僕が気付くはずもなかった。
「っ‥‥‥!!」
「きゃあ!!」
鈍い痛みが身体に走り、凍てついた雪がスーツを濡らす。
けれど、胸許に当たるこの柔らかな感触は―
「な」
「だ、だいじょうぶ…ですか…?」
何故僕は彼女に覆い被さっているのか。
転んだ衝撃と相まって、僕は暫くその状況に呆然としていた。
「まさか…僕を支えようとしたのか……?」
「は、はい……ごめんなさい」
『そんな筈はないだろう』と思いながらも口にした言葉を肯定され。
返事をするのも忘れて、僕は彼女に釘付けになってしまった。
「すまない、怪我はないか?」
「いえ、私は…。武市さんこそ大丈夫ですか?」
「僕も何ともないが…だが君の着物が汚れてしまった」
「そんな、これくらい大したことないですよ」
漸く我に返り、彼女を立たせると、少し乱れてしまった髪を耳に掛け、名無しさんは着物を叩(はた)いた。
「武市さんこそ大丈夫ですか?…あ」
僕を見上げた彼女は、はたと一点で視線を止める。
そして胸許に手を伸ばすと、慣れた手つきでネクタイを締めた。
「少し緩んじゃってます。…はい、これで大丈夫です」
「あ、ああ…。ありがとう」
振り向き様に目を細めた彼女は、そろそろとした足取りで飛び石を渡っていく。その後に続きながら、ネクタイに触れると、ふと心臓の音が速くなっているような気がした。
氏名 名無し 小娘、生年月日、趣味、家族構成は―。
何故もっと早くこれを開かなかったのだろう。せめて一度でも見ておけば、もっと気の利いた会話が出来ただろうに。
(面白い女性だったな…)
僕の返事は大久保さんを通して―。
そうして幕を閉じた見合いを思い出しながら、僕は釣書を机に置いた。
控えめな女性かと思いきや、その行動は大胆で。全くあの小柄な身体で大の男を支えようなど、誰が考えるだろうか。
「武市、いるか!!」
そんな思い出し笑いをしていると、また昨日と同じ調子でドアが跳ね返る。
壊れるのも時間の問題かもしれないな―。半ば呆れた気持ちを抱えながら、僕は彼ではなく揺れるドアを見ていた。
「見れば分かるでしょう。どうかしましたか」
「お前、昨日の見合いは断ったんだろうな!」
「…貴方には関係のないことでしょう」
見合いの日にちまで覚えているとは。
やはり名無しさんは、ただの高杉さんのお気に入りという訳ではないらしい。
「な…!まさかお前…!!」
「仕事の話以外なら後にして貰えませんか。ただでさえ今は…」
「小娘に一目惚れしたんじゃないだろうな!!」
よりによって、一番嫌いな言葉を突きつけられ。
思わず僕は、ドアが開いたままになっていることも忘れて、大声を張り上げていた。
「何を馬鹿な…!無理強いさせられた見合いなんか、断るに決まってるだろう!」
その言葉を言い切ったと同時に、ぽすんと何かが落ちる音が耳に入る。
音の方向に目を向ければ、そこにあったのは女性ものと思われる黒い革のバッグで―。
「小娘…どうしてお前ここに…!」
「高杉さんがここにいるって…桂さんが教えてくれて……それで、わたっしっ…」
見る見るうちに、黒い瞳が濡れていく。
だが、何と言葉を掛けたら良いのだろう。彼女にあんな表情をさせたのは―紛れもなく僕だ。
「ごめんなさいっ……」
「ちょっ…待て小娘!!」
鞄もそのままに駆け出していく彼女を、高杉さんが追いかけていく。
その後ろ姿からデスクに視線を移すと、柔らかい笑みを湛えた名無しさんの写真と視線が重なった。。