密やかな始まり


細やかな腕を懸命に伸ばし、仄かに顔を紅潮させていた彼女の髪が頬を掠める。力なく崩れ落ちた小娘さんの身体は、片腕で足りるほど華奢だった。

「小娘さん!」

ばさりと落ちたファイルが手の甲を擦(かす)った気がしたが、そんなことはどうでも良かった。栗色の睫毛を伏せ、半開きになった彼女の唇からは、苦しそうな吐息が絶えず漏れている。

「熱があったのか…!?」

先程よりも更に赤みを増した頬に触れ、額に手を滑らせる。瞬く間に掌に伝わる熱さは、僅かに残っていた僕の理性を狂わせる。

「おい小娘、これも一緒に…って課長、どうしたんですか?」
「岡田」

目を白黒させる岡田に気が付いたのは、小娘さんを抱き抱えてすぐのことだった。逸(はや)る心を抑え、意識を失っている彼女を見下ろす彼に、僕は一息に捲し立てる。

「名無しさんが熱で倒れた。僕はこれから病院へ行くから、後は頼む」
「は、はい。分かりました」

岡田の返事を片耳に聞き、廊下を抜けた僕はエレベーターのボタンを押す。いつもならば大して気にならない待ち時間も、今は途方もなく長く感じられた。

「どちらまでですか」
「ああ、ここから一番近い―」

運良く居合わせたタクシーに乗り込んだ僕は、運転手の言葉に一瞬口籠もる。小娘さんの熱が酷いことは明らかだが、急患でもない限りは後回しにされてしまうだろう。

(だとすれば…あいつを頼るしかないな)

ジャケットの内に入っていた一枚の名刺を運転手に渡し、僕はその手で携帯を取り出した。

「急いでそこに行って欲しい」


微かに消毒液の匂いが漂うその部屋のデスクは、少し突(つつ)いたら忽ち書類の雪崩が起きそうだった。昔から整理が苦手な奴だったが、今もそれは変わらないらしい。

「おう、久し振りじゃのう!元気にしとったか?」
「ああ、相変わらずだ。お前も忙しそうだな」

大口を開けて目を細める龍馬は、遅い昼飯の途中だったのか、白衣に赤いソースの染みを付けている。幼なじみの彼が一時的にこの総合病院で働き始めたのは、僕が昇進したのとほぼ同時期だった。

「熱があるというのはこの人じゃな。話せるかえ?」
「はい…。大丈夫です」

タクシーの中で意識を取り戻した小娘さんは、瞳をとろんとさせながら答える。それを良しとしたのか、龍馬は彼女の口内にペン型のライトを向けた。

「扁桃腺が腫れとるのう…。熱は高いが上がっちゃせんところを見ると、恐らく風邪じゃの」
「…そうか」
「少し安静にしてれば、熱もすぐに下がるじゃろう。あまり無理はしちゃいかんぜよ」

胸許のポケットにライトを仕舞い、龍馬は小娘さんの頭をぽんぽんと撫でる。そして机上のカルテを手早く書き終えると、近くの看護師にそれを手渡した。

「無理を言って済まなかったな。恩に着る」
「何を言うか。これぐらいお安い御用じゃ。ところで、武市」

まだ辛そうな顔をした小娘さんを支えながら腰を上げると、龍馬は楽しそうに声を潜ませる。

「彼女はお前の恋人か?」
「なっ…!ただの部下だ」
「ほうかほうか。直接聞いたわしが馬鹿じゃった」

顔の前で手を振りながら、龍馬は椅子に体重を預ける。長年付き合いを共にしてきたこの男には、最早嘘は通用しないらしい。

「詳しいことはまた今度聞かせてくれ。これでも呑みながらの」

グラスを傾ける仕草をしながら、龍馬は可笑しそうに笑みを浮かべる。一方の僕は苦笑いしたい気持ちを堪え、ただこの会話が小娘さんの耳に届いていないことを祈っていた。


(これからどうするか…)

タクシーに揺られ、また眠ってしまった小娘さんは、僕の肩で寝息を立てている。一番良いのは彼女の友人に連絡を取ることだが、勝手に携帯を開くのも些(いささ)か気が引けた。

(となると…岡田、か…?)

だが、出来ればその選択肢は選びたくなかった。それは彼を信用していないのではなく、男としての嫉妬心からだった。

(馬鹿か、僕は…)

小娘さんのことを考えれば、自ずと答えは出ている。
しかし、携帯を開いた僕は、ふと車内に響いた機械的な振動音にその手を止めた。

鮮やかなイルミネーションを繰り返しながら振動する小娘さんの携帯。
その画面には、前に彼女から聞いた女友達の名前が表示されていた。

(彼女なら、力になってくれるかもしれない)

後ろめたさはあったが、悩んだ末、僕は小娘さんの携帯を耳に当てた。

『…もしもし』
『…あれ?あ、えっとすみません、これ小娘ちゃんの携帯ですよね…?』

彼女が混乱するのも無理はなかった。
とりあえず僕は、この状況を掻い摘まんで彼女に説明することにした。

『そうだったんですか…。小娘ちゃん、朝会った時は平気そうだったのに…』
『ああ、それで君も予定があると思うんだが、小娘さんのことをお願い出来ないだろうか』

電話の向こうの彼女は『それは、』と言い掛けると、そのまま押し黙ってしまう。幸か不幸か、今日は金曜日だ。だから、既に予定が入っていることは十分に考えられる。
だが、次に彼女が口にした言葉に、僕の思考は停止した。

『あの…武市さんは今夜何かご予定があるんでしょうか』
『…?いや、僕は特に…』
『それなら、小娘ちゃんのことお願いします』
『は?』

呆気に取られる僕に構わず、彼女は更に話し続ける。

『私、今日は岡田君と予定がありまして。武市さんになら小娘ちゃんを任せられますから』
『岡田と…?ちょっと待っ…』

様々な疑問が頭を交錯する中、ぷつりと電話が切れる。それをゆっくりと下ろし、視線を横に動かすと、小娘さんの瞼が僅かに揺れた。

「悪いが、行き先を変えてくれ。場所は―」

ふぅと溜息を吐くと、肩に伝わる重みと温もりの心地好さに気付く。さらりと流れる小娘さんの髪を撫でながら、僕は自分の携帯を静かに戻した。

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