恋の言い訳
膝に置いた雑誌から頭を上げ、少し離れた場所に立つ横顔をそっと窺う。
昼間は大勢の人で賑わっていたこの場所も、今では彼のシザーの音が反響しているだけだった。
「慎ちゃん」
「あ、決まりましたか?」
「うん。こんな感じが良いな」
手を止めた慎ちゃんは、笑顔で私に近付き手許の雑誌を覗き込む。その瞬間、彼の髪が私の頬に落ち、心臓がどきりと跳ねる。
(ち、近い…)
密かに動揺する私に対して、慎ちゃんは真剣な眼差しで雑誌を見つめている。その視線の先は、私が指を差している写真に向けられていた。
「随分切ることになっちゃいますけど…大丈夫ですか?」
「うん、このくらいの長さも可愛いかなって。…私には変かな?」
「いえ、そういう意味じゃなくて…」
何となく歯切れの悪い彼は、雑誌を片手にそのまま考え込んでしまう。
その少し陰った表情に不安を感じ、下を向くと、胸まで伸びた自分の髪が目に入ってくる。
慎ちゃんに会ってからずっと伸ばしていた髪。
それをばっさり切ろうと思ったのは、ごくごく単純な理由だった。
「…わかりました」
小さく息を吐き、慎ちゃんはぱたんと雑誌を閉じる。
鏡越しに見る彼は、いつの間にかにこやかな表情に戻っていた。
「でも、少しだけ変えても良いですか?もっと小娘ちゃんに似合うようにしますから」
「ありがとう、慎ちゃん」
そう答えると、彼は口許を緩ませて腰のシザーを取り出した。
「…でも、もったいないですね」
床に広がっていく髪を見ながら、ふと慎ちゃんがぽつりと溢す。
「小娘ちゃんは長い髪もすごく似合ってますから」
「慎ちゃんのおかげだよ。前だったら、膨らんじゃって大変だったもの」
「ははっお世辞でも嬉しいッス!でもそんな小娘ちゃんも…」
そう言って目を細めた慎ちゃんは、私に気付くとはっとした顔で視線を逸らしてしまう。そして続きを口にすることなく、慣れた手付きでまたシザーを動かし始めた。
(…?慎ちゃん、どうしたんだろう…)
彼が何を言おうとしたのか気になったけれど、私は何となくそれを聞き返せないまま、再び正面に視線を戻した。
少しずつ髪を切り進めていく慎ちゃんの手付きはとても優しくて、不思議と温かい気持ちになる。
例え仕事でも、彼を独占出来るこの時間は、私にとって幸せな一時だった。
(慎ちゃんの手って…すごく安心するなぁ)
そう思いながらうとうとしていると、ふっと彼がシザーを置く気配があった。その音に私がはたとすると同時に、慎ちゃんの声が室内に響く。
「出来ました」
緊張しながら鏡を見ると、肩先で毛先がふわふわと揺れる。
こんなに短くしたのは久しぶりだったのに、不思議と違和感はあまりなかった。
「ありがとう、慎ちゃん。こんな感じが良かったの」
「本当ッスか?そう言って貰えて安心しました」
ほっとしたように相好を崩す慎ちゃんは、私の髪を丁寧に整えていく。
私はその心地好さに身を委ね、軽く瞳を閉じた。
「あの…小娘ちゃん」
彼の声に瞼を上げると、鏡越しに視線が重なる。よく見ると、その顔は薄ら上気しているようにも思えた。
「少し上を向いて貰えますか?」
「…?…うん?」
慎ちゃんの言葉に少し顔を上げた瞬間、柔らかな髪が頬を擽る。けれど、落ちてきたのはそれだけじゃなかった。
「し…んちゃん」
唇に柔らかい感触を残した慎ちゃんは、頬を緩めて私を見下ろす。それはいつもの無邪気な顔ではなく、どことなく含みを持たせた笑顔だった。
「ねえ、小娘ちゃん」
「な、なあに?」
「突然髪を切ろうと思ったのはどうして?」
慎ちゃんを見上げたままの私の唇を、彼の指がすっと撫でる。たった一言、理由なんてないと答えてしまえば良い。それなのに、私の口は頭とは裏腹に勝手に動き始めてしまう。
「だって…」
「うん」
「この間…慎ちゃんは髪が短い人が…その…」
あまりの恥ずかしさに、自然と声が小さくなってしまう。それを聞こうとしてか、慎ちゃんは黙ったまま私に顔を寄せた。
「…好きって…言ってたでしょ…?」
鏡に映った真っ赤な顔。
それから逃げるように立ち上がると、ふいに後ろからきゅっと抱き締められる。
「きゃっ…」
「俺のために切ってくれたの?」
とても返事を声に出来ない私は、首を小さく縦に振る。小さな笑みを溢した慎ちゃんは、私の髪をさらさらと撫でながら項(うなじ)にそっと口付けた。
「じゃあ…責任取らないと、ね?」
その言葉の意味を理解する間もなく、再び彼の唇が私に合わさる。その熱い感触に身を委ねながら、私は慎ちゃんの背中をそっと抱き締めた。