暗れ惑い


咄嗟のこととはいえ、これを出してしまったのは失敗だったかもしれない。きっと以蔵は、私が考えている以上にあの人のことを見ているはず。
だから、その持ち物のことだって、知ってて当たり前な訳で―。

(気付かれちゃったら、何て言おう…)

上昇していくエレベーターに耳の奥が遠くなるのを感じながら、私はそっと後ろを振り向く。けれど、当の本人はその視線にすら気付いていないようだった。

「ねぇねぇ、小娘ちゃん」

肩をとんとんと叩かれ、私は隣に立つカナちゃんに耳を寄せる。すると彼女は、どこか楽しそうに声を弾ませた。

「何か良いことあったでしょ?」
「え?」
「だって、そう顔に書いてあるんだもん」

「あの人と進展があったの?」とカナちゃんは一段と声を落とす。その言葉に昨日の出来事を思い出しながら、私は小さく頷き返した。

「ほんとに?何があったの!?」
「た、大したことじゃないんだけど…。話すと長くなっちゃう…かも」

「だから、今夜話すね」と私が言うと、カナちゃんは焦れったい口調で「気になって仕事にならないよ」と溢す。私達は今夜、新しくオープンしたパスタのお店で夕御飯を食べる約束をしていた。

「でも良かった。傍(はた)から見ても、小娘ちゃんとあの人お似合いだもん。報告楽しみにしてるからね」

カナちゃんが私に笑い掛けた途端、ドアがゆっくりと開いていく。私達より下の階にオフィスがある彼女は、右手を小さく振りながらエレベーターを後にした。

(私、そんなに顔に出てたのかな)

カナちゃんの言葉に少し恥ずかしくなりながら、私はふっと後ろの鏡に目を向ける。そのとき、いつの間にかエレベーターに乗っている人が随分と少なくなっていることに気が付いた。

「相変わらずあいつは楽しそうだな」

壁にもたれ掛かった以蔵は、僅かに笑みを浮かべてじっと私を見る。彼の意味ありげな表情に嫌な予感が過り、私は恐る恐る唇を動かした。

「き、聞こえちゃってた…?」
「何のことだ」

私からドアに視線を移した以蔵は、顔色を変えることなく口を噤(つぐ)む。その台詞に胸を撫で下ろしながら、私はひっそりと溜息を吐いた。

「おい、置いてくぞ」
「あっ!待っ…」

こつんと額を叩かれるのと同時に、微かに足許が揺れ、視界にいつもの廊下が映る。けれど彼の背中を追いかけようとした途端、突然くらっと意識が途切れそうになった。

「…小娘?どうかしたか?」
「う、ううん…何でも…ない」

立ち止まる以蔵に首を振り、私は慌てて彼の許に駆け寄った。


「―資料室、行って来るね」
「ああ、ひとりで大丈夫か」
「うん、平気」

机に積み重なった書類を持ち上げ、私はそれを落とさないように慎重に席を立つ。朝一で頼まれた書類の整理が漸く終わったのは、お昼を少し過ぎた頃だった。

(武市さん、まだ戻って来ないのかな…)

朝の挨拶もろくに交わせないまま、武市さんが会議に行ってしまってからもう半日。会ったところで何かが変わるわけじゃないけれど、やっぱりその姿が見れないのは寂しい。

(私…こんなに欲張りだったっけ?)

最初は、一緒に仕事が出来るだけで幸せだった。それが、一緒にいたら二人きりで話したくなって、話せたら今度は触れたくなって―。

(…って何考えてるの!)

自分の考えを振り切るように足を速め、私はやっと着いた資料室のドアノブを回す。普段、立ち入る人が少ないせいか、その中は埃っぽい空気が漂っていた。

(早く片付けちゃおう)

持てる分だけの書類を手にし、私は近くの踏み台に足を掛ける。けれど、それを使っても一番上の棚にはまだ身長が足りなかった。

(うーん、あとちょっと…!)

目一杯手を伸ばしながら背伸びをしていたそのとき、ふわっと空気が流れる気配がした。

「……小娘さん」

思わずドアに顔を向けた瞬間、私を見上げる武市さんと視線が合う。さっきまであんなに会いたいと思っていたのに、いざ彼を目の前にしたら、私の頭は急に働かなくなってしまう。

「武市、さん…。も、もう会議は終わりですか?」
「ああ。小娘さんは資料の整理かな」

「はい」と答えた私は、やっと届いたファイルを手に取り、持っていた書類に差し替える。そしてそれを戻そうとまた四苦八苦していると、すっとファイルが持ち上がった。

「手伝おう。君の身長だと届かないだろう?」
「い、いえ、だいじょ…」

赤い顔を背け、私は爪先を伸ばす。そのとき、目が眩むのと同時に、私の足はふらっとよろめいてしまった。

「―小娘さん!」

優しい武市さんの声が耳を突き、身体から一気に力が抜けていく。
二人きりのときは名前で呼んで欲しいと言ったのは私なのに、恥ずかしくて心臓が壊れてしまいそう―。
それが、遠ざかる意識の中で私が呟いた最後の言葉だった。

prev | top | next

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -