朝明色
聳(そび)え立つビル街から見上げた四角い空は、昨日の雨が嘘だったかのように青く澄んでいた。けれど、一度(ひとたび)視線を落とすと、所々に出来た大小の染みがあの悪天の爪痕を残している。
(今日は良いお天気で良かった)
少しずつ季節が移り変わろうとしているのか、ビルの間を通り抜ける風が涼しい。いつもより早めに出勤した今日は、まだ人影もまばらだった。
(武市…さんはもう会社かな…?)
憧れのあの人とふたりきり。
ささやかかもしれないけれど、それが叶って本当に嬉しかった。
だけど、一夜明けた今でも、昨日のことは全部夢だったんじゃないかとも思ってしまう。
『僕のことも、肩書きなしで呼んで貰えるかな。…小娘さん』耳に残る武市さんの優しい声。
名前を呼ばれただけなのに、その甘い響きを思い出すだけで胸がきゅっとなる。
(…やっぱり武市さんが好き)
二人の関係は何も変わっていないけれど、これ以上望んでもきっと傷付くだけ。だって武市さんにとって、私は部下のひとりでしかないから。
「きゃっ…!」
人知れず、小さな悲鳴が上がる。
自分で言った言葉にショックを受けていた私は、すぐ目の前に段差が迫っていたことにも気が付いていなかった。
(やっ…また転んじゃう…!)
そんなことが頭を過ったとき、ぐいっと身体が後ろに傾いた。
「危なっかしい女だな、お前は」
「…あ。以蔵、おはよう」
真上から降ってくる呆れたような声。
お腹に回った手に支えられ、体勢を立て直した私は、ゆっくりとその人を振り返った。
「ごめんね、ちょっと考え事してて。以蔵が助けてくれて良かった」
「お前が考え事?どうせまた新しい菓子のことでも考えてたんだろう」
その台詞にちょっとむっとして以蔵を見上げると、彼は可笑しそうに口許を緩めた。
「違うもん!私だっていつもお菓子のことばかり考えてる訳じゃないんだからっ!」
「そうか?それは悪かったな」
そう口にするものの、以蔵に悪びれた様子はない。そんな彼に文句を言いたい気持ちになりながらも、私は昨日のことをどう話そうか悩んでいた。
「それで、忘れ物はあったのか?」
いきなり核心を突かれ、どきっと心臓が高鳴る。私は自分の言葉に後ろめたさを感じながら、また小さな嘘を重ねた。
「うん、あの…これ忘れちゃって」
私がバッグから取り出したそれを見た以蔵は、意外そうに目を瞬かせた。
「おい、まさかお前の家はボールペンの一本も置いてないのか」
「も、もう!そんな訳ないでしょ!これは特別なの」
なぜ特別なのかと聞かれる前に、私はバッグにそれを戻した。尤も、もし聞かれたとしても本当のことはとても話せなかった。
「小娘ちゃん、岡田君、おはよう」
頭を捻る以蔵を横目にエントランスに入ると、聞き慣れた声が耳に入る。それと同時に、エレベーターの前で小さく手を振る人影が映った。
「おはよう、カナちゃん」
「昨日は散々だったね。会社は早く終わってラッキーだったけど」
隣に並んだ私達に、カナちゃんはふふっと笑い声を溢す。会社は違うものの、偶然にも同じビルで働いている彼女は、私の高校時代からの友達だった。
「ところで小娘ちゃん、昨日は何時まで会社にいたの?電話したけど留守だったよね」
「あ…ごめんね。昨日は早く終わったんだけど、忘れ物取りに戻ったら結局遅くなっちゃったの」
「わざわざ万年筆を取りに、な」
ぱっと以蔵を見上げると、その顔はエレベーターに向けられたままだった。その言葉に「なるほどね」と呟いたカナちゃんは、赤くなる私を見て楽しそうに口許を緩めた。
毎日持ち歩いている大切な万年筆。
その万年筆には、カナちゃんにしか話したことがないあの人との大切な思い出が詰まっていた。