ふたつの嘘(1)
「酷い降りになってきましたね」
窓に打ち付ける激しい雨は、時間を追うごとに勢いを増し、今や室内の物音をほとんど掻き消していた。そのせいなのか、いつもなら向かい合うビルの明かりが見渡せるこの窓も、今日は室内の景色を反射しているだけだった。
「ああ。電車は大丈夫か、岡田」
僕と同じ窓に視線を投げていたのは、後輩である岡田以蔵だった。
彼はその手に持っていた書類を僕に差し出すと、ちらりと後ろを見遣った。
「はい。俺は…大丈夫です」
なぜ岡田がそんな含みを持たせた言い方をしたのか、その理由は彼の視線の先にあった。そこには、栗色の髪をひとつにまとめ、じっとパソコンの画面を見入る名無しさんの姿があったのだ。
「名無しさん」
「はい」
僕の声にぱっとキーボードから手を離し、彼女はくるりと椅子を回転させる。既に何時間もその体勢を崩していないというのに、名無しさんの顔にはほとんど疲れが見えなかった。
「進捗状況はどうだい」
「はい、今終わりました!」
にこりと笑いながらパソコンを閉じ、彼女は出来上がったばかりの書類を僕の許に持ってきた。恐らく今日中には完成しないだろうと考えていただけに、僕は彼女の仕事の早さにいささか目を剥いた。
「ありがとう。よくこんなに早く仕上げてくれたね」
「いえ、そんな」
以蔵の隣に立ち、照れたようにはにかむ彼女は噂通りの女性だった。僕は名無しさんから受け取った書類を引き出しにしまうと、腕時計に目を呉れた。
「定時はまだだが…。この天気だ。二人とも今日はもう帰って良い」
予報によれば、この豪雨は明日の明け方まで続くらしい。この天気では主要路線が運行を見合わせることは確実であり、それを見越した会社から退社命令が出たのだ。
「わかりました。ですが、武市課長はどうされるのですか」
「生憎、最寄り駅の電車が止まってしまってね。もう暫くしたら、タクシーでも拾って帰るつもりだ」
幸か不幸か、片付けなければならない仕事はまだ山のようにあった。僕は最も手間取りそうな案件のファイルを取り出し、再びパソコンを開いた。
「そうですか…。ではお先に失礼します。小娘、行くぞ」
「ちょ、ちょっと待って、以蔵」
僕に一礼し、手早く帰り支度を済ませた岡田が入口で名無しさんを振り返る。その様子に彼女も慌てて荷物の整理を始めたものの、ふとその手を止め、僕に歩み寄ってきた。
「…あの、武市課長…。お帰りお気を付けて下さいね」
「ああ、名無しさんも気を付けて」
心配そうな顔付きで頭を下げ、彼女は慌てて部屋を後にした。既に他の社員も早々に仕事を切り上げ、この部屋に残っているのは僕一人しかいなかった。
(最寄りの電車が止まった…か)
たった今吐いた自分の嘘を思い出しながら、僕は苦笑いを浮かべた。
実を言えば、僕は岡田と名無しさんの親しげな様子をこれ以上見ていたくなかったのだ。
(…あの二人は、付き合っているのだろうか)
僕が知っているのは、岡田と名無しさんが同期であるということだけだ。
岡田は入社以来、僕の下で働き続けているものの、名無しさんに関しては、4月にこの部署に配属されるまで言葉を交わしたことすらなかった。
「―初めまして。名無し小娘です」
初めて僕と顔を合わせた名無しさんは、やや緊張した笑みを浮かべていた。
彼女のことは、風の噂程度には耳にしていたが、それ以上に名無しさんの纏う雰囲気は柔らかく、まるで日だまりのようだった。