甘い企み


七分目まで注がれた二つのコーヒーは、雨で冷えた手には心地好い温かさだった。
黒に溶け合った苦みと甘み。その匂いはいつもと同じはずなのに、なぜだか今日は特別なものに感じられた。

(…どうしてあんなこと聞いちゃったんだろ)

心臓が奏でるリズムに合わせて、手許のカップが微かに揺れる。思わず自販機の前から動けずにいると、ついさっき口にした言葉が頭に蘇った。

『課長は…お付き合いしている方がいらっしゃるんですか…?』

武市課長の噂は数あれど、その多くは仕事の優秀さや端正な容姿を褒めるものだった。それでも時折、どこの誰それが課長を食事に誘ったとか告白したとかいう噂は尽きることがなかった。

(あんなにかっこいい人なら当たり前だよね…)

それを聞く度に胸が痛くなったけれど、同時にその女性達が羨ましくなった。せっかく同じ部署になれたというのに、私には告白どころか彼に話し掛ける勇気もなかったからだ。

(自分でもわかってるけど…)

出来ることならもっと彼と話したい。
だけど武市課長のあの瞳と視線が合っただけで、私の顔は火が点いたように赤くなってしまう。
仕事の話は出来るのに、他愛もない話をするのがこんなに難しいなんて今まで思いもしなかった。

だから今夜は、私にとって夢のような時間だった。憧れの人とこんなに近くで話せて、それも部屋にいるのは私達だけ。

たまには大嫌いな雷も悪くない―。

けれどそれに乗じて、あんなことを口走っちゃうなんて自分でもびっくりした。

(もし課長が頷いていたら…私はどうしたんだろう)

それを想像するのは難しいことじゃなかった。だから私は、彼が答える前に自分からその質問を取り消した。

(この気持ちが叶わなくてもいい。でももう少しだけ…)

右手に持ったカップに軽く口付け、私はそっと目を瞑った。

(あの人を好きでいさせて下さい)


「―お待たせしました。武市課長」

小さく深呼吸をし、半開きになっていたドアを軽く押すと、課長の姿が遠くに見える。私の声に視線をパソコンからドアに移した彼は、目許を和らげ、すっと腰を上げた。

「一人で行かせて悪かったね。大丈夫かい?」
「はい。あ、こっちが課長の分です」

ありがとうと言って右手のカップを受け取った課長は、中をまじまじと見ながらふっと笑みを溢した。

「コーヒーなんて何年振りかな。学生の時以来かもしれない」
「そうなんですか。以前はお飲みになってたんですね」
「ああ…。眠気覚ましになるからね」

そう言ってコーヒーを飲み始める彼を上目に見ながら、私も左手のカップを傾けた。けれど、それに口を付けて何秒もしないうちに、武市課長がカップを机に置いた。

「…課長?」

見ると、口を左手で覆った彼の顔色は、心なしか青くなっていた。コーヒーの量は、買ってきた時からほとんど減っていない。

「あの…もしかして…」

私は自分のカップをその隣に置き、彼を覗き込んだ。

「ブラック、お嫌いでしたか?」
「あ…いや…。久し振りに飲んだから…」

そう答える彼の口振りはたどたどしかった。その声も話し方も普段の武市課長とは掛け離れていて、不謹慎にも私は頬を緩ませてしまった。

「…課長」

私は手前のカップを手に取り、彼に差し出した。

「交換、しましょうか?」
「え?」
「実は私もコーヒーを買ってきたんです。でも、お砂糖もミルクもたっぷり入ってます」

課長は私が差し出したカップを意外そうに見つめると、すっと横に視線を逸らした。

「だがそれでは…。名無しさんに申し訳ない」
「私のことなら気にしないで下さい。ブラックも好きですから」

薄く頬を染めた課長は、そう、と短く答えると、私の手からカップを受け取った。私はその手で奥に置かれていたカップを取り、ゆっくりとそれを喉に流した。

武市課長が苦い飲み物をあまり好きじゃないことは、本当は何となく気付いていた。だからかなり苦めだと評判のこの商品を選んだ時、こうなることは予想出来ていた。

(ごめんなさい、課長)

心の中で謝罪しながら、私は彼がカップに口付ける姿にちらっと目を向ける。ひどい部下だと思われても仕方ないけれど、私は少しでも貴方に近付きたかった。

(例えそれがカップ越しでも…)

「…名無しさん?」

彼の声に口を離すと、不思議そうな顔をした課長と視線が重なった。私はその目に笑い掛け、カップを両手できゅっと握った。

「いえ、やっぱりコーヒーはおいしいなって思いまして」
「ああ、こんなのも悪くないね」

はい、と答え、私は再びカップに唇を近付ける。
口中に広がる慣れないブラックコーヒーは、苦いながらもどこか甘みを含んだ不思議な味だった。

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