第三話(1)


『半平太さん…―』

初めて口にした貴方の名前はとても擽ったくて、私は本当に顔から火が出るんじゃないかと思った。そんな私を更に煽った貴方の一言は、今もこの胸に甘い記憶を呼び覚ましてくれる。

『宜しく。…小娘』

例えその綺麗な唇が動くのが夢の中だけだとしても、忘れることなんて出来ない。だってあの夜のことを思い出すだけで、今も私はこんなに幸せな気持ちになれるのだから。

(あ…)

そんな想いを馳せて仰いだ空には、糸のように細い月が浮かんでいる。
触れたら忽ち切れてしまいそうなその危うさは、まるであの夜から始まった私達の嘘によく似ていた。


じりじりと照り付けていた太陽が沈み、夕闇が辺りを包み始めた頃、半平太さんは私を寺田屋の一室に案内してくれた。

「ここが君の部屋だ。先程女将には話をしてきたから、自由に使いなさい」

彼に続き、おずおずと足を踏み入れたその部屋は、一人で泊まるには贅沢な作りだった。
陽当たりの良いその一室は風も吹き抜け、加えて優に四、五人は泊まれる広さを兼ね備えていた。

「たけ…半平太さん、私もっと小さいお部屋で大丈夫です」
「いや。それは困る」

畏縮して立ち尽くす私の手を取ると、半平太さんは隣の襖に目を向けた。

「この隣は僕の部屋でね。君が僕の女だという便宜上、部屋が離れていては不自然だろう?」
「あ…。そう…ですね」

何気ない彼の台詞に、私はまた耳が熱くなるのを感じる。その言葉に何の意味もないと分かっていても、そう簡単に割り切れなかった。

(もう…。この先これで大丈夫かな…私)

自分に対する不安の溜息を小さく吐き、私はスクバを置いてその場にへたりこむ。すると、そんな私を見て、対座した半平太さんはくすっと笑い声を溢した。

「今宵、皆に君を紹介しようと思う。だが小娘さんは、僕に話を合わせていれば良い」
「は、はい。わかりました」

それから、と言葉を続けると、半平太さんの表情が少し固くなった。

「今日は一人、客人が来ていてね。彼に何か言われても、君は聞き流すように」
「…?」

彼の「何か」という言葉に引っ掛かったものの、私はそのまま首を縦に振る。それを見た半平太さんは、にこやかな顔で腰を上げ、私の頭をふわふわと撫でた。

「良い子だね。では、行こうか」

その優しい顔と手付きに、小さなもやもやが瞬く間に消えていく。
私は半平太さんの広い背中を追いながら、心の中がほんわかと温かくなっているのを感じていた。


六人分の食膳が用意された部屋には、既に三人の男の人が席に着いていた。
彼らは半平太さんを見るなりそれぞれに声を掛けたけれど、私の姿を認めた途端、その表情に不思議そうな色を浮かべた。

「さ、君はここに座りなさい」
「はい、ありがとうございます」

彼に言われるまま席に着くと、半平太さんもその隣に腰を下ろす。そして半平太さんは、私をちらりと見遣ってから三人に視線を向けた。

「ああ、紹介がまだだったな。小娘、彼等が僕の仲間だ」
「は、初めまして…。名無し小娘です」

頭をそろりと上げると、ぐいっと肩が引き寄せられる。その瞬間、私の身体は彼にもたれるようにぴったりとくっついてしまった。

「昼間、この子が遊郭に売られそうになっているところを見掛けてな。僕が引き取ることにした」
「なっ…!!」

同時に驚きの声を上げた三人は、口をあんぐり開けたまま呆然と私達を見ている。けれど暫くして、私の目の前に座っていた一人ががたんと激しく膳を叩いた。

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