序章
短い呻き声が耳を突くのと同時に、忌まわしい羽織が眼下に頽(くずお)れる。
ぴくりともしないその身から己の刀を引き抜いた僕は、鞘が付いたままのそれを乱暴に放り出した。
「武市さん、斬っちゃ駄目です!」
咄嗟に頭を過った、鈴を鳴らしたようなあの声。
彼女の歪んだ表情と叫びにも似たその懇願は、僕を躊躇させるには十分だった。
「何時までも女々しいことを…」
壁に背を預けながら呟くと、自然と自虐的な笑みが浮かぶ。
既に他の男の物になった姿をこの目で見てきたばかりだというのに、僕の頭はそう易々と彼女の存在を忘れさせてくれないらしい。
(彼なら、きっと君を幸せにしてくれるだろう)
瞼を下ろせば、勝ち誇ったあの男の顔が心を蝕んでいく。
けれどもその時、そんな感傷の情に溺れる隙など与えないかのように、鋭い金属音が僕の頭に響き渡った。
(これまで…か)
投げ捨てた刀を再び懐に収め、不穏な気を放つ寺田屋の一室を仰ぐ。
障子が映し出す黒い影は、見知ったあの男の輪郭を鮮明に浮き立たせていた。
「―お帰りなさい、武市さん」
緊迫した空気が漂う玄関に踏み込むと、不意に彼女の声が脳裏に蘇る。それは一年半前までの僕の日常の風景であり、今ではもう二度と掛けられることのない言葉だった。
(ここは、彼女との思い出が多すぎるな)
ありもしない情景に惑わされそうになりながら正面を見据えると、一点の灯かりが目に留まった。
不安定にゆらゆらと揺れ動く紅炎。
そのやや黄みを帯びた色は、初めて小娘と出会ったあの場所を彷彿させた。
―晴れ渡る薄青色の空と対照的に際立つ朱塗りの門。
その異様な光景に眉をしかめた僕は、無意識に独り言を漏らした。
「龍馬の話は、本当だったのか」
幾先にも渡ってそびえ立つそれに触れながら、僕は今朝の会話を思い出していた。
「…社がない?」
「ああ。この間見つけたんじゃが、鳥居しか見当たらない不思議な場所でのう。あそこなら、待ち合わせに打って付けじゃ」
朝餉を掻き込み、大急ぎで玄関に向かう龍馬から渡された手書きの地図。
その適当な絵に半ば呆れた気持ちになっていると、ばつが悪そうな声が返ってきた。
「おんしならそれでわかるじゃろ?ほいたら、また後での」
そう言い残して寺田屋を出て行く龍馬を見送りながら、改めてそれに目を落とす。
(神域を象徴する鳥居があるのに、社がないなんてことがあるのか?)
ふとした疑問が頭を掠めたが、僕はそれを大して気にも留めずに、所々墨が飛び散った地図を折畳んだ。
新緑が影を落とす石畳を進めば、時折冷気をはらんだ風が頬を撫でていく。
いつの間にか額に滲んだ汗は消え、気が付けば僕は待ち合わせから随分離れた所まで来てしまっていた。
(そろそろ、戻らねばな…)
そう思いながらも足を止めずにいると、突如吹き上がった疾風に木々がざわめく。
立ち上る砂埃に僕が目を瞑ろうとしたその時、風に乗って微かに鈴の音が聞こえたような気がした。
尚もざわざわと揺れる木立を擦り抜け、音のした方向へ足を動かす。
するとそこには、真新しい造りの神社がぽつんと建っていた。
「随分、小ぢんまりとした社だ」
何とは無しに頬が緩むのを感じながら社に近付こうとすると、ふと足の先に柔らかい感触が当たる。
思わず下に目線を向けた僕は、拾い上げたそれをまじまじと見つめた。
(これは…根付か?)
猫を模(かたど)ったような奇妙なそれは、何とも言えぬ触り心地だった。
何か持ち主を示す手がかりはないものかと思い手の中で転がしてみるも、一向にそれらしきものは見当たらない。
(またここに来れば、落とし主と会えるかもしれない)
そう考えた僕は、それを懐にしまい待ち合わせの場所へと急いだ。
「…龍馬も以蔵もまだか」
先程よりも強さを増した日差しに目を細めながら、人道に視線を向ける。
すると突然、背中側からどさりと何かが倒れる音が聞こえた。
「ん…」
倒れ伏したその人物に顔を向けると、異国物の風変わりな着物が視界に入ってくる。
(…見て見ぬ振りも出来まい)
僕は躊躇いがちに膝を折り、彼女に近付いた。
「…大丈夫か?」
すんなりとした身体を抱き起こせば、焦げ茶色がかった長い睫毛が小刻みに揺れる。
雪肌のような頬と鮮紅色の唇に目を奪われていると、そっとその瞳が見開かれた。
「あ…の…?」
口許を震わせながら、潤みをたたえた茶褐色の瞳が僕を捉える。
その透き通った目は、僕の心を大きく揺さ振った。
―この出会いが後に運命を大きく左右することになるとは、この時の僕は想像すらしていなかった。