第六話(2)
「―それじゃ、半平太さんが盗んだ時計を弁償したの?」
「ああ、そうだ。あれは、帰郷する少し前の話だったな」
浮かない表情で以蔵が話してくれたのは、同じ道場の山本琢磨さんという人がひょんなことから時計を盗み、それを売り飛ばしてしまった事件だった。その時計はどちらも稀少なもので、結局は半平太さんが金策に走り回って弁償したらしい。
「半平太さん、すごく優しくて責任感のある人なんだね…」
「それに慎重なお方だ。だからこそ、俺はお前のことが解せん」
「え?」
訝しそうな視線を向ける以蔵に、心臓がどくんと高鳴る。思わず顔を逸らしてしまった私は、口を結んだままその続きに耳を傾けた。
「先生に限って有り得ないと思っていたが…。見も知らぬ女を囲うとは、血迷ってしまわれたとしか思えない」
―違う…。
それはただの口実で、本当は彼の女どころか、私と半平太さんは何の繋がりもない。
(私のせいで…半平太さんまで悪く言われちゃう…)
きっと私も山本さんと同じ。
優しい半平太さんは、偶然出逢った私を見るに見兼ねて助けてくれただけ。
(このまま…彼に甘えてて良いの…?)
頭に靄が掛かり始め、急に足取りが重くなる。けれど、それを考える間もなく、私の口は突然塞がれてしまった。
「ん…!」
路地に引き摺り込まれ、ぎゅっと後ろから抱えられてしまった私は、身動きを取ることすらままならない。それでも恐る恐る視線を上げると、大通りを睨む以蔵の顔が視界に映った。
「新撰組の…あれは、沖田と藤堂か」
口を手で押さえられたまま、私はその単語に頭を巡らせる。だけど思い出せたのは、教科書でその名前をちらっと見たということだけだった。
(もっと歴史の勉強しておけば良かった…)
もどかしい気持ちで以蔵を見上げ、私はその手にそっと触れる。視線が重なった彼は、瞳で静止を促しながら、ゆっくりと口許の手を外してくれた。
「くそ…!ここまで来て…!」
新撰組が何かは分からないけれど、見つかったらまずいことだけは以蔵を見ていて分かる。私は通りに目を向けながら、苛立つ彼に声を潜めた。
「…人混みに紛れて、このまま抜けられないかな?」
「無理だ。必ずどちらかが気付く」
事が起こる少し前、以蔵はこの先にある大きなお屋敷が長州藩邸だと教えてくれた。まだ建物は見えないけれど、きっとここからはそう遠くないはず。
「…じゃあ、私が囮になる」
「なっ…お前何言って…―」
「藩邸はもう近いんでしょ?それなら、以蔵だけでも早く行かなくちゃ」
「私なら大丈夫だから」とは言ったものの、本当はどうしたら良いのか分からない。だけど、これ以上足手まといにはなりたくなかった。
「おいっ…小娘…!」
初めて彼が私の名前を口にしたとき、身体はもう大通りへと動いていた。
(何て話し掛けたら良いんだろう…?)
気のせいか、新撰組を避けるように行き交う人々の中に身を隠し、私は一人考え込んでしまう。せっかく話し掛けたところで、時間が稼げなければ意味がない。
(以蔵、早く逃げてね…)
二人との距離が一歩一歩縮まるにつれて、どんどん心臓が煩くなる。そして空色の羽織が横目を掠めた瞬間、私はふっと立ち止まった。
「あ、の…―」
「―ん?…うわっ!」
「きゃっ」
肩にどんっと大きな衝撃を受け、身体がバランスを崩す。よろめいてしまった私は、そのままその場に尻餅をついた。
「悪い!大丈夫かっ!?」
「は、はい…」
差し伸べてくれた手を取り、そろそろと顔を上げると、羽織姿の男の人が私を見つめている。少し幼さの残るその顔は、私とさほど年齢が変わらないように見えた。
「着物、汚れちまったな。本当にごめん!」
「あ…これくらい平気です」
ぱんぱんと着物を軽く叩(はた)き、私は頬を緩める。ぶつかってしまったとはいえ、その原因を作ったのが自分だけに、何だか申し訳ないような気持ちになった。
「平助、何かお詫びをしなければ。娘さん、少し時間はありますか?」
「え?」
声がした方に顔を向けると、薄青色の瞳を細め、にっこりと笑う男の人が映る。
「この近くにすごくおいしい和菓子屋さんがあるんです。お詫びと言ってはなんですが、ご馳走させて貰えませんか」
「そ、そこまでして頂かなくても…。本当に大丈夫ですから」
「良いから良いから。それじゃ僕たちの気が済みません」
「こっちです」と私の手を取り、半ば強引に二人は歩き始める。その途中、「総司は自分が甘いもんを食いたいだけだろ」と溢す声が耳に届いた。