第六話(1)
緋色の髪を無造作に縛り、逞しい腕を露にした後ろ姿は、雑踏の中でも取り分け際立って見えた。それなのに、私と彼の距離は広がっていく一方で、ぼんやりしているとその姿を見失ってしまいそうになる。
「あっ…あの…岡田さん…!」
思い切って口を動かしてみるも、私の声はあっという間に喧騒に掻き消されてしまう。けれど次の瞬間、振り返った彼の鋭い視線が突き刺さった。
「何だ」
荒々しい語気に圧され、喉まで出掛かっていた言葉を飲み込みそうになる。それでも私は、浅い呼吸を整えながら彼に駆け寄った。
「えっと…その…」
いざ険しい顔を目の前にすると、私はつい視線を落としてしまう。こんなことを言ってしまったら、ますます彼の機嫌を損ねてしまうような気がする。
「おい!言いたいことがあるならさっさと―」
「あのっ!もう少しゆっくり歩いて貰えませんか?」
「は?」
突然被さった私の声に驚いたのか、岡田さんはぽかんと口を開く。
「私、着物にも下駄にも慣れてなくて…上手く歩けないんです…。だから、その…」
寺田屋を出てからというもの、岡田さんの歩調は一向に落ちる様子がない。何とかここまでついて来たけれど、着物姿だとどうしても足捌きが悪くなってしまう。
(そんなの自分でどうにかしろって…叱られちゃうかな…)
どちらともなく沈黙が続き、岡田さんはぷいっと顔を背けてしまう。そしてまた何事もなく歩き出したかと思うと、ぽそりとばつが悪そうに呟いた。
「…悪かったな」
空耳かと思い瞳を瞬かせ、私は慌てて彼の後を追い掛ける。その足取りは、さっきよりも緩やかになっているような気がした。
(この人も…優しい人なんだ)
「ありがとうございます」と口にすれば、その横顔が薄らと赤みを帯びる。私は思わず目許が緩むのを感じながら、小さく笑声を溢した。
「岡田さん、長州藩邸はもうすぐでしょうか」
「…以蔵でいい」
「え?」
相変わらず顔を正面に向けたまま、岡田さんはぶっきらぼうに口を動かす。
「恭(うやうや)しくされることには慣れていない。…敬語も不要だ」
「そ…そう。それじゃ…」
私は少し足を速め、ひょこっと彼の顔を覗き込む。すると岡田さんは、忙しなく動かしていた足をふっと止めた。
「私のことも小娘って呼んでくれる…?以蔵」
「……!あ、ああ…」
深紅色の瞳を逸らし、「さっさと行くぞ」と溢した以蔵は、私の横をすっと通り過ぎる。そして並んだ私をちらっと見ると、しどろもどろに口を開いた。
「武市先生が連れてきたとはいえ…俺はお前のことを認めてはいない」
「…うん」
「だが…昨日大久保さんに食って掛かったことは礼を言う。お前が言わなければ、俺が叩き斬っていたところだ」
昨日のことを思い出したのか、以蔵は眉根を寄せ、ぎりっと唇を噛み締める。その表情に背筋が冷たくなった私は、敢えて話題を変えることにした。
「ね、ねぇ以蔵」
「何だ」
「どうして以蔵は、半平太さんのことを“先生”って呼ぶの?」
昨日からずっと気になっていたことを質問すると、以蔵はふっと頬を緩ませる。それは、私が初めて見た彼の笑顔だった。
「武市先生は俺の剣の師範だからだ。初めて会ったのは、あの方が土佐で道場を開いていたときだった」
「半平太さん、道場を開いてたの?」
「土佐」がどこなのかはわからなかったけれど、私はそれを口に出さないようにした。
「ああ。知力にも剣技にも長けた先生は、俺達郷士の憧れだったからな。俺の他に、中岡も門下生だった」
以蔵は生き生きとしながら、私にたくさんのことを教えてくれた。
半平太さんが土佐で構えた道場が大盛況だったこと、その後、江戸の名門道場へ入門した彼が“鏡新明智流”皆伝を受け、塾頭にもなったこと、けれどご家族の事情で帰郷しなければいけなくなったこと―
時折、聞き慣れない言葉が出てきて全てはわからなかったけれど、私の知らない彼のことが聞けるのは嬉しかった。