第五話(3)
風にそよぐ若葉を耳に感じながら、僕は昨日と変わらぬそれを見上げた。まだ出来て間もないこの社は存在自体が知られていないのか、今日も辺りに参拝客の姿はない。
(一人になるには、打って付けの場所かも知れんな)
階段に腰を下ろした僕は、一刻前の土佐藩邸での出来事を思い出し、長い溜息を吐いた。いくら時代が変わろうとしたところで、人の性根というのはそう簡単に変わらないことをまざまざと見せ付けられたような気がした。
『お話が上手く出来ると良いですね』
だが、それでもこんなに心が穏やかでいられるのは、小娘のお陰かもしれない。彼女の声には、この汚れきった感情を浄化してくれるような優しい響きがあった。
「全く…不思議な子だ…」
その言葉と共に、僕の顔には自然と笑みが浮かぶ。ころころと変わる小娘の表情を思い出しながら、ふと僕は袂からあの根付けを取り出した。
(恐らく、持ち主は女性だろうな)
猫を模した根付けなど、今まで見たことがなかった。だが正確にいえば、そもそもこれは根付けなのかも疑問だった。
(…異国の小物なのだろうか)
だとすれば、落とし主と接触するのは危険な可能性がある。
しかし今更元に戻しておくわけにもいかず、僕は再び掌に視線を落とした。
(厄介なことにならないと良いが…)
今頃、もしかすると持ち主はこれを必死に探しているかもしれない。
そんな考えに行き着いたとき、ふっとこの根付けと小娘が重なった。
(彼女の家族も友人も…さぞ心配しているだろうな)
元気に振る舞っていても、小娘とて寂しくて不安な気持ちでいっぱいだろう。ならば、早く還れる術を見つけてやらねばならない。
『すごくぼろぼろなお寺でした』
彼女が未来で見た寺がこの時代にあるとすれば、新しい建物だと考えるのが自然だ。京都と言えど、近頃新造した寺の数など高が知れている。それらを調べれば、小娘がここに来るきっかけとなった寺は簡単に見つかるだろう。
だが―。
一瞬浮かんだ自分勝手な考えを、僕はすぐに打ち消した。
小娘が傍にいるのは、あくまで未来に還るまでのこと。その先を望むことなど、決して考えてはならない―。
神社を後にし、少し早めに長州藩邸へ着いた僕は、ふと門前で足を止めた。僕の名を呼ぶ声の方に顔を向けると、見知った人影が近付いて来るのがわかったからだ。
「以蔵。どうした」
「先生っ…!あの、小娘を見ませんでしたか」
「…いや。小娘に何かあったのか?」
どくんと高鳴る心臓が嫌な予感を告げる。次に以蔵が口にした言葉は、奇しくもそれを的中させるものだった。
「実は新撰組と鉢合わせしそうになりまして…小娘が、自分が囮になるから先へ行けと…」
「な…!」
すうっと血の気が引くような感覚が走り、僕は以蔵に詰め寄った。
「小娘は今どこに…!」
「わかりません…。新撰組の沖田があいつを連れていったところまでは見たのですが、その後は全く…」
「……!」
彼女と僕らの係わり合いが知られれば、小娘が無傷で済むはずがなかった。ぎりっと唇を噛み締めると、微かに鉄の味が口に流れた。
「以蔵、お前はここにいろ。僕は小娘を探しに行く」
「で、ですが先生、会合は…」
「そんなもの遅れると言っておけ!」
そのまま以蔵の返事も聞かずに、僕は市中へと走り始めた。
このどこかにひとりぼっちでいる小娘のことを考えると、不思議と自分を呼ぶ彼女の泣き声が聞こえるような気がした。