第五話(1)
群青色の空が徐々に白みがかり、無数の陽射しが夜明けを告げる。
瞼の裏を照らす眩さにぴくりと睫毛が揺れ、少しずつ視界が開けてくると、見慣れた天井が映った。
(…漸く朝、か)
疲れの残った身体を起こし、僕は明かり窓の前でその足を止めた。まだ早朝とはいえ、明々とした夏の陽射しはよく目に染みた。
(ほとんど眠れなかったせいだな…)
陽の光を背に座り込むと、ふっと彼女の顔が頭を過る。昨日出逢った不思議な女子は、一昼夜経った今も頭から離れない存在だった。
『―半平太さん』
泣いたり笑ったり、果ては怒ったり。
間者と疑うにはあまりに無防備な小娘の姿は、僕の中の一抹の疑念をいつの間にか掻き消してしまっていた。
(…彼女はもう起きているだろうか)
再び腰を上げた僕は、部屋を隔てる襖を一瞥し、そのまま廊下へと繋がる障子に手を伸ばした。いくら周囲には恋仲と言い含めてあるとはいえ、やはりあの襖を開けるのは些か憚(はばか)られた。
「―小娘、起きているかい?」
彼女の部屋の前に立ち、名を呼んでみるが返事はない。まだ寝ていてもおかしくないとは思ったものの、少しして僕は部屋から物音がひとつも聞こえてこないことに気が付いた。
「開けるよ」
一頻り逡巡した末、静かに障子を引くと、がらんとした部屋が目に映った。既に布団は仕舞われているのか、広い畳の上には彼女の手荷物が置かれているだけだった。
「一体どこに…」
「武市はん」
思わず独り言を呟いたそのとき、声がした廊下の端から女将が歩み寄って来るのが見えた。
「お登勢さん。おはようございます」
「おはようさんどす。毎度お早おすな。ようお仕事どすか?」
「いえ、今日はまだ。それより小娘を知りませんか?部屋にいないのですが」
「ああ!小娘ちゃんどすか」
ぱっと表情を明るくしたお登勢さんは、笑みを浮かべながら饒舌に口を動かし始めた。
「今朝、朝餉をこしらえるのを手伝いたいって言うてくれましてな。ちょい前まで一緒に厨においやしたんどすけど、今は中庭におるようや」
「中庭に…?」
朝から中庭で何をしているのか見当がつかず、僕は頭を捻った。だが、とりあえず女将に礼を言い、そのまま中庭へ足を進めることにした。
まだ床に就いている者も多いこの時分、小娘の姿を見つけるのは難しいことではなかった。だが、真剣な眼差しを正面に向ける彼女を見て、僕は声を掛ける機会を失ってしまった。
小さな手に竹刀を握り、それを振り下ろす凛とした小娘の顔付きは、例えようもなく美しかった。髪を後ろで高く結び、くっきりとした輪郭が浮き立つ彼女の横顔は、いくら眺めていても飽きることはないだろう。
「あ、半平太さん」
そんなことを考えどれぐらい時が経ったのか、気が付けば笑顔を浮かべた小娘が僕に歩み寄っていた。
「おはようございます。今日も良いお天気ですね」
「ああ、おはよう。昨日は…」
よく眠れたかと口にしようとした僕は、寸前でその言葉を飲み込んだ。元気そうに見えても、その大きな瞳の下が薄らと青白くなっているのが分かったからだ。
「…?昨日は何ですか?」
「いや。それより、君は剣の心得があるのかい?」
「あ、はい。私の家、剣道の道場なんです。それでもう生活の一部みたいになっちゃいました」
「そう。それでか」
少し嗜(たしな)む程度にしては、彼女の型は随分綺麗だと思った。武術を身に付けた女子は何人か見てきたが、小娘はその中でも特に良い素質を持っている。
「でも、まだまだ癖が直ってないって先生には叱られてるんです。それでたまに練習してるんですけど、自分じゃどこが悪いのかわからなくて…」
「…そうか。君の場合、重心を前に傾けすぎなのかもしれない。型はとても綺麗だから、それを直せばもっと良くなるだろう。僕で良ければ、今度見てあげるよ」
「本当ですか?ぜひお願いします!」
嬉しそうに目を細める小娘の笑みに釣られて、僕の口許も緩む。
「そろそろ朝餉だ。着替えておいで」
「はい!もうお腹ぺこぺこです」
自分の帯の辺りを撫でる彼女と並んで歩きながら、僕はまた笑みを溢した。