第四話(3)
空一面を黒い雲が覆う今宵は、いつにも増して人気も物音もなかった。
それだけに、先程から隣で話し続けるその男の声は、僕の耳によく響いた。
「小娘さんはまっこと面白い女子じゃのう」
「ああ、そうだな」
薩摩藩邸からの帰り道、龍馬の口から出てくるのは小娘の名ばかりだ。大久保さんに怒鳴る彼女の姿は、彼にとって余程痛快な出来事だったらしい。
(…確かに、小娘があんなことを言うとは思ってもみなかった)
あんなに呆気に取られた大久保さんを見る機会は、恐らくこの先もないだろう。だが、僕にはそれよりも気にかかることがあった。
(大久保さんのあの笑み…)
自分に意見する小娘が面白かったのだと言われればそれまでだ。
されど、他意があると考えてしまうのは気を回しすぎだろうか。
「のう、武市」
考え込む僕に、沈黙を続けていた龍馬が口を開く。その言葉は、寺田屋へ急いでいた僕の足を思わず止めた。
「おんし、もう小娘さんを抱いたんか?」
歩き続けながらそう言い放つと、龍馬がふっと僕を振り返る。
一瞬、月明かりに照らされたその瞳は、遠目に見ても妖艶な色を湛えているのが分かった。
「…何が言いたい」
睨む僕を一笑すると、龍馬は再び前を見据えて歩き始めた。
「その分なら、まだ好機はありそうじゃのう」
独り言のように呟いた言葉は、僕の耳には届かなかった。
けれども、旧知のこの男が今何を考えているのか、それを推測するのは容易なことだった。
今思えば、気に入った女子を目の前にして、龍馬があんな詭弁を受け入れるはずがない。だから僕は、あの男を牽制するために彼女の唇を奪ったのだ。
(…他に意味などない)
そう自分自身に言い聞かせ、灯りを消すと、僕は再び布団に入り込んだ。
だが、薄紅色に頬を染め、瞳を潤ませた小娘の顔は、いつまでも僕の心を掴んで離さなかった。