第四話(2)
会ったばかりの男にあんなことをされ、もう小娘は僕の顔など見たくないのかもしれない。
そんな一抹の不安が渦巻くのを感じながら、僕は彼女の傍に腰を下ろした。
「…突然すまなかったね」
「あっ…い、いえっ…」
びくっと肩を震わせて頭を上げた小娘の瞳は、まだ熱っぽく揺れたままだった。それは呼吸がままならなかったせいなのか、それとも突然の衝撃をまだ受け入れられないせいのか、推し量る術はなかった。
(…龍馬にもそんな顔を見せたのか)
去り際のあの一言に、酷く胸が騒ぐ。
だが、なぜこんなことを考えてしまうのかこの時の僕にはわからなかった。
「龍馬が僕らのことを疑っているようでね。先程、影が見えたものだから、ああするしかなかったんだ」
「あ…。そう…だったんですか」
唇から手を離し、ちょっとびっくりしちゃいましたと呟くと、小娘はまた顔を俯かせた。その表情に嫌悪感は浮かんでおらず、僕は密かにほっと安堵の息を漏らした。
「…そう言えば、中岡と何か話していたのかい?」
ふと、ここに来る前から気になっていたことを口にすると、小娘の顔がぱっと上がる。
二人が話していたのは見えなかったが、慌てて自室に戻ったことを考えると恐らく彼女に話があったのだろう。
「それが、中岡さんったら面白いんですよ。私のこと『姉さん』だなんて呼んで…あ!」
くすくすと笑いながら話していた小娘は、突然その瞳を大きく見開いた。
そして顔を翳(かげ)らせると、深々と頭を垂れた。
「半平太さん、ごめんなさい…!」
「え?」
「大久保さんにあんなことを言っちゃって…。私のせいで、半平太さんが怒られていないか心配で…」
頭を上げた小娘は、今にも泣き出しそうな顔で僕を見つめている。
その表情に頬が緩むのを感じながら、僕は彼女の頭をそっと撫でた。
「僕は大丈夫だ。大久保さんも気にしていなかった」
「本当ですか…?」
ああ、と返事をすると、ふと温かい感触が手を伝う。見れば、笑顔になった小娘が僕の手を包み込んでいた。
「良かった…」
心底安心したように笑う小娘に、思わず胸が轟く。
だが、僕はそれを彼女には気付かれぬように、すっと腰を上げた。
「遅くまですまなかった。今夜は疲れただろうから、もう休みなさい」
「あっ…はい、あの半平太さん、」
その声に身を反すと、小娘がたたっと近寄ってきた。
「いろいろありがとうございました。もし半平太さんがいなかったら、今頃どうなっていたか…」
「…いや。大したことはしていない。それじゃ、おやすみ」
おやすみなさい、と答える小娘に微笑みかけ、僕は二人の部屋を隔てる障子を閉めた。
朝以来足を踏み入れていなかった部屋には、女将が気を効かせたのか、既に布団が敷かれていた。
(長い一日だったな…)
文机に積み重なった書状の山を見遣り、僕は布団の上に身体を倒した。いつもならばまだ眠るような時間ではなかったが、今夜はどんな仕事も捗(はかど)りそうになかった。
『これ以上半平太さんにひどいこと言わないで…!』
頭に何度となく蘇る彼女の声。
きっと小娘は気性が真っ直ぐなのだろう。それゆえ、大久保さんの物言いが我慢できなかっただけだ。
(…どうかしている)
女子に庇われたことなど、今までに一度もなかった。
そんなことは恥だとさえ思っていたのに、なぜ僕は嬉しいなどと思ってしまったのだろう。
『ちょっとびっくりしちゃいました』
目を伏せれば、突然の口吸いに頬を赤らめた小娘が浮かぶ。その可愛らしい顔と同時に、一刻前のあの男の言葉が僕の頭を過った。