第三話(3)


「やめてください!」

気が付くと私は、半平太さんのあの言葉も忘れて声を張り上げていた。

「半平太さんが約束を守れなかったのは私のせいなんです!!怒るなら私に怒って下さい!!これ以上半平太さんにひどいこと言わないで…!」

そこまで言い切った時、漸く私は我に返ったもののもう遅かった。恐る恐る大久保さんを見ると、彼は口をぽかんと開けたまま呆気に取られているようだった。

(ど、どうしよう…!私、つい…!)

水を打ったようになる室内に、私は半平太さんの顔を見ることが出来なかった。
けれど、暫くしてその沈黙を破り笑い声を上げたのは、思ってもみない人物だった。

「くくっ…。この私に楯突くとはな。…名は何と言う」
「え?」

てっきり叱られると思っていただけに、大久保さんの言葉はあまりに意外だった。私は一瞬きょとんとしながらも、慌てて彼に身体を傾けた。

「名無し…小娘です。あの…すみませんでした」
「…ふん。坂本君、酒を貰おうか」

小さく鼻で笑った大久保さんは、何事もなかったように盃に手を伸ばす。そしてなみなみに注がれたお酒を口にしながら、また意味ありげな一笑を浮かべた。


(はぁ…。やっちゃった…)

あれから夕御飯を終えた私は、一人縁側に座って長い溜息を吐いていた。
自分の不用意な言葉への後悔もあったけれど、それより大久保さんを送りに行った半平太さんのことが心配だった。

(私のせいでもっと怒られちゃってるかも…)

元はと言えば私のせいなのだから、自分のことは何と言われても良かった。
だけど、私を助けてくれた半平太さんのことを悪く言われるのは、どうしても我慢出来なかった。

「夜風は身体に悪いッスよ」

聞き慣れない声に身を反すと、そこにはさっき夕食で一緒だった男の人が立っていた。

「あ…の…?」
「自己紹介が遅れてすんません。俺は中岡慎太郎と言います」

中岡さんは私の隣に腰掛けると、細長い三日月からこちらに視線を移す。そして少し興奮したように私の手を取り、にこにこと人懐こい笑顔を見せた。

「さっきは本当に格好好かったッス!大久保さんのあんな顔、初めて見ました」

月明かりが薄らと照らすその顔は、少年のようにも大人の男性のようにも見える。そんな不思議な雰囲気に吸い込まれそうになりながら、私は弱々しい声で答えた。

「でもそのせいで、大久保さんをもっと怒らせちゃったかもしれません…」

すると中岡さんは、一頻り目をぱちぱちさせ、高らかな声で笑った。

「それはないと思います。本当に怒ったのなら、あの大久保さんが名前を聞くはずないッスから」
「そうなんですか…?」

はい、と勢い良く返事をした中岡さんは、次の瞬間ぱっと手を離して立ち上がる。その顔には、どこか焦りの色が浮かんでいた。

「武市さんが帰って来たみたいッス!こんなところを見られたら、俺も龍馬さんの二の舞ッスね。それじゃ、おやすみなさい、姉さん」

そう早口で話し終えると、中岡さんは急いで元の廊下を走っていく。そんな彼の背中を見ながら、私はくすっと笑みを溢した。

(「姉さん」だなんて…。中岡さんって面白い人だなぁ)

少し心が軽くなったその時、みしりと床板の軋む音が耳に届く。その音に頭を上げると、風のざわめきと共に急に視界が暗くなった。

「小娘、部屋に戻りなさい」

ぐっと私を立ち上がらせると、半平太さんは薄暗い廊下を進んでいく。私は繋がれた彼の手を握りながら、心に暗雲が広がっていくのを感じていた。


部屋に着き、ぴしゃりと障子を閉めた半平太さんは、相変わらず口をつぐんだままだった。暗くて彼の顔はよくわからなかったけれど、私はとにかくさっきのことを謝りたかった。

「は、半平太さん!あの、さっきは本当に―」

けれど、その言葉が最後まで彼に伝わることはなかった。
なぜなら私の唇は、その時彼によって隙間なく塞がれてしまっていたのだから。

私がこの時代にタイムスリップして、貴方と出会った最初の夜。
それは、私達が初めて口付けを交わした忘れられない夜でもあった。

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