第二話(3)
「…江戸か。随分遠いところから来たんだね」
特に驚いた様子もなくそう答えると、武市さんは私に視線を戻す。そんな彼に、私は首を振って答えた。
「違うんです。私がいたのは江戸じゃなくて…」
私は地図から指を外し、震える両手をぎゅっと握った。
「私は、未来の江戸…東京から来たんです…」
―気が付いた時には江戸時代にタイムスリップしていたなんて、一体誰が信じてくれるだろう。
そうは言っても、今の私には、自分に起きたこの不思議な出来事を話すしかなかった。
「つまり、君は何かの拍子で未来から過去に来てしまった。そう言うんだね?」
「…はい」
暫く沈黙を守っていた武市さんは、落ち着き払った声でそう切り出した。けれど、私は彼にどう思われているのか不安で、その表情を見ることが出来なかった。
「…さっき、女将さんに今日のお客さんのことを聞きました。そしたら、私が泊まる予定はないって…」
まだ震えが止まらない両手に、ぽつりと雫が滴(したた)る。次第にそれは手の甲をすっかり濡らし、私はますます顔を上げられなくなった。
(武市さん、きっと可笑しな子だって思ってるよね…)
一体これからどうすれば良いのか分からず、私の胸は不安で押し潰されそうになる。
するとその時、目許に温かい感触が伝った。
「…分かった」
その声に視線を上げると、武市さんの細い指が目に留まる。気が付けば、止めどなく溢れていた涙は、彼の指によって拭われていた。
「元の世界に帰れるまで、僕が君の面倒を見よう」
「え?」
思ってもなかった彼の言葉に、つい間が抜けた声が出てしまう。涙で滲んだ私の視界には、優しい顔でこちらを見る武市さんが映っていた。
「行くところがないんだろう?ならば、ここにいれば良い」
頼る人が誰もいない私にとって、その心強い言葉はとても嬉しかった。その反面、こんな話を信じて貰えると思っていなかっただけに、驚きの気持ちが心を占めていた。
「だが、ひとつ提案がある」
「…提案ですか?」
私はスクバの中から取り出したハンカチで頬に流れた涙を拭き、彼の言葉に耳を傾けた。
「この寺田屋には、僕の仲間が三人泊まっている。君も、二人には会っただろう?」
そう言われて、私はさっき見た男の人達のことを思い出す。顔はよく見ていなかったけれど、黒いふわふわの髪と腰まである赤い髪がよく印象に残っていた。
「彼等が君を見て、浮かれ立つのは目に見えている。だから、そうなる前に手を打っておきたいんだ」
「…?」
彼の言おうとしていることがよくわからず、私は首を傾げた。だけど武市さんは、そんな私に構わずに話を続けた。
「『君は遊郭に売られそうになっているところを、僕が見つけて買った』…それなら、彼等も簡単には手を出しては来ないだろう」
聞き慣れない単語に、私の頭はますます混乱しそうになる。私は彼の言葉を頭の中で繰り返しながら、その意味を考えた。
(“ゆうかく”って何だろう…?でも、男の人が女の人を買うってことは…)
その答えに行き着いた途端、私は頭が沸騰しそうなくらい恥ずかしくなる。けれど、その言葉の意味を確認せずにはいられなかった。
「あ、の…それは…他の人には、私が武市さんの女だってことにするって意味ですか…?」
私の質問に、武市さんは否定しなかった。それが答えだと受け取った私は、一瞬どう返事をして良いのか戸惑った。
「無論、君が嫌なら他の案を考えるが」
「いえっ…。嫌じゃないです」
「…そうか」
無意識にそう言葉を返すと、また彼の顔が柔らかくなる。その表情は、何度見ても私の心臓をきゅっと掴んで離さなかった。
「では、これから人前では君のことを小娘と呼ぶことにしよう。君も、僕のことは名前で呼びなさい」
「はい…。半平太さん…―」
―初めて貴方の名前を口にしたあの瞬間から、私は半平太さんに恋していたのかもしれない。
もう呼べない貴方の名前を思い出しながら、私はそんな幸せな頃を思い出していた。