第二話(2)


「ほな、うちはこれで。何やおましたら呼んでおくれやす」

そう言いながら立ち去る女将さんと入れ違いに、武市さんが私の枕元に腰を下ろす。けれど、女将さんが出て暫く経った後も、彼が話し始める様子はなかった。

(やっぱり…すごく怒ってるんだよね…)

何て謝ったら良いのか分からないまま、重い空気だけが流れていく。そんな雰囲気に口を開けずにいると、ふと彼の手が私に伸びてきた。

(え…?)

「…熱はないようだね」

額を覆う骨張った大きな手は、ひやりと仄かに冷たい。恐る恐る顔を上げると、つっと彼の視線が私と繋がった。

(あ…)

青みを帯びた彼の瞳は、宝石のように透き通って見える。その美しさに目を奪われてしまった私は、まるで金縛りにあったように動けなくなってしまった。

「少し疲れていたんだろう。気が付かなくてすまなかった」

そう言って彼が手を下ろしても、私の口からすぐに言葉は出てこなかった。今の私には、ばくばくと大きな音を立てる心臓をおさめるのがやっとだった。

「小娘さん?」
「えっ!いえ、その…何でもないです」

覗き込むように顔を見られ、いよいよ壊れそうなくらい鼓動が速まる。
それを誤魔化すように布団から抜け出ると、私はその場に座り込んだ。

「あの…本当にごめんなさい」
「え?」

不思議そうな顔付きでこちらを見る彼に、私は項垂れて答えた。

「武市さん、大切な約束があったんですよね…?なのに、私のせいで…」

どんどん小さくなる自分の声を聞きながら、私は膝の上の着物を握り締めた。だけど、次に発した彼の声色はとても優しいものだった。

「…小娘さんはそんな心配しなくて良い。それよりも、君に大事がなくて何よりだった」

その言葉に頭を上げると、ふんわりと笑う武市さんが目に入る。それと同時に、不安でいっぱいだった私の心が、ぽっと火を灯したように温かくなった。

(武市さんってやっぱり優しいんだな…)

もしこの世界で初めて会ったのが彼じゃなかったら、今頃どうなっていたか見当もつかない。そんなことを思っていると、武市さんがまた口を開いた。

「だが、ひとつ聞きたいことがある」
「あ、はい。何でしょうか?」
「君は呉服屋で瓦版を見て、ひどく驚いていただろう。…何にそんなに驚いたんだ?」

そう問い掛ける武市さんに、私は何も答えることが出来ない。今いるのがさっきとは別の世界だと分かっても、ここが一体いつなのか確かめるのが怖かった。

「それ…は…」

そのまま言葉に詰まってしまうと、私は自分の鼓動の音しか聞こえなくなってしまう。そんな時間がどれくらい続いたのか、暫くして武市さんが腰を上げた。

「では、質問を変えよう」

ふぅと小さく息を吐き、部屋を出た彼は、何かの巻物を手にして戻ってきた。

(これは…地図?)

目の前に広がる巻物に描かれていたのは、日本地図だった。だけど、それは私の知っている地図とは随分違って見えた。

(知らない地名がいっぱい…)

そんな疑問を持ちながら地図を見ていると、武市さんがある一ヵ所を指差した。

「ここが京だ。して、君はどこから来たんだい?」
「はい、えっと…」

視線を上にずらし、私は東京の方角に目を向ける。するとそこにあったのは、歴史に詳しくない私でも知っている地名だった。

「武市さん。私…ここから来たんです」

震える指で示したその場所は、まさにこの時代そのものを表していた。

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