思惑(1)


彼の肩越しに部屋の奥を見れば、行灯の火がゆらゆら揺れているのが目に入る。
いきなり抱き締められたことに私が目を瞬かせていると、艶かしい声が鼓膜に響いた。

「…わざとですよ。」

柔らかな布団に押し倒された瞬間、妖しい笑みを浮かべる彼と目が合い、背筋がぞくっとした。


「―小娘さん、中岡を呼んで来てくれんかのう?」

事の起こりは、その一言だった。
龍馬さんにそう頼まれた私は、にこつきながら彼の部屋に向かっていた。

(慎ちゃんに早く会いたいな…。)

今日も慎ちゃんは薩長同盟の妥結に向けて駆けずり回っている。
想いが通じ合ったとは言え、相変わらず彼は忙しくて、ほとんど擦れ違いの毎日が続いていた。

部屋の前に着いた私は、深呼吸をして逸る心を落ち着かせると、襖に向かって声を投げた。

「慎ちゃん、いる?」

暫く待って見るものの、返事は無い。
迷った挙げ句、襖を開けるとそこに彼の姿はなかった。
橙色に染まった部屋は綺麗に片付けられていて、文机の横にはたくさんの本が積み重ねられていた。

(さすが慎ちゃん、いっぱい勉強してるんだなぁ…。)

何気なしに、一番上にある本を手に取ってぱらぱらと捲ってみる。
だけど、私の目に飛び込んできたのは何だか奇妙なイラストばかり。
一体何の本なんだろうと思いページを繰っていると、恐ろしい絵が現れて私の顔からは血の気が失せた。

「…姉さん?」
「ひゃあっ!」

不意に、肩に手を置かれて身体が跳ね上がりそうになる。
どぎまぎしながら振り向くと、私の声に目を丸くした慎ちゃんと目が合った。

「すみません。そんなに驚くとは思わなくて…。」
「う、ううん、私こそ勝手に部屋に入っちゃってごめんね。」

慎ちゃんに向き合うように体勢を変えると、彼の視線が私の手元に注がれた。

「あ、それ、龍馬さんに借りた絵本百物語っスね!」
「…?絵本…?」

私は首を捻りながら、もう一度本に目を向けた。
確かに絵は多いけど、ところどころに難しい漢字が書いてある。
もしかして、この時代の絵本って子ども向きじゃないのかな…?

「ね、慎ちゃん、この本って何が書いてあるの?」

私はさっきまで見ていたページを見せながら尋ねた。
すると彼は、何時ものようににこにこした表情で答えてくれた。

「絵本百物語は奇談を集めた本っスよ。その絵は、孤者異(こわい)っていう妖怪ですね。」
「よ、妖怪!?」

思いも掛けない返答に私は本を落とした。
だけど、彼は平然とした顔のまま私を見つめている。

「どうかしましたか?」
「よ、妖怪って…その、空想上の生き物だよね…?」

確認するように恐る恐る聞くと、彼は信じられないことを私に告げた。

「うーん…。俺も見たことはありませんが…噂はよく聞きますね。」
「…え?」

彼は文机の上にあった本を手に取り私に見せた。
またもや身の毛がよだつような絵に、私はその場から逃げ出したくなった。

「これは土佐に伝わる有名な妖怪なんです。俺の知り合いにも見たって人がいましたよ。」
「へ、へえ…そうなんだ…。と、ところで、慎ちゃん、さっき龍馬さんがね…、」
「あ、仕事の話ならもう済みました!」

何とかこの本から話題を逸らそう思ったけど、それは無理そうだった。
ひとつひとつ丁寧に説明してくれる慎ちゃんの話をなおざりに出来ず、結局夕餉の時間になるまで私はその本の一部始終を聞くことになってしまった。


夜半になり、寺田屋がしんと静まり返っても、私の頭の中ではあの恐ろしい絵がぐるぐると回っている。

(まさか、この時代って本当に妖怪が出るの…?)

真っ暗闇になるのが怖くて、私はなかなか灯りを消すことが出来ないまま、布団に横になっていた。

「…小娘ちゃん、まだ起きてるんですか?」

その時、障子に見覚えのある影が映り、私は身体を起こした。

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