菫色の記憶(1)
燃えるような夕焼けが群青色に移ろい、ひそやかに宵闇の訪れを告げる。空を仰げば、光輝く三つの星。いつかプラネタリウムで見たオリオン座を思い出しながら、私は時間も忘れてそれに見惚れていた。
「…ただいま。せれね」
「あ…慎ちゃん。お帰りなさい」
「またそんな薄着で…。風邪引くって何度も言ってるだろ?」
渋々とした口調で庭に下りた慎ちゃんは、私の手を握ると「やっぱり」と呟いた。
「ごめんなさい、空が綺麗でつい」
「気持ちは分かるけど…。早く中に入ろう。今夜はいつもより空気が冷たいから」
「うん。あ、私お茶淹れるね」
東京よりも寒さの厳しい京都の冬。
ふと地面に目を向けると、小さなハート形の葉が霜できらきらと光っている。
こんなに寒くて「あれ」は大丈夫かな―?
一抹の不安を感じながら、私は厨へと足を向けた。
「お仕事、お疲れさまでした」
彼好みのお茶を淹れるのにも、もうすっかり慣れて。
細い湯気が立ち上る少し熱めのお茶。
それに唇を付けると、慎ちゃんの喉仏がこくりと上下した。
「あ、薯蕷(じょうよ)饅頭!おいしそう」
「うん、せれねが好きだったなって思って。お土産」
「ありがとう、慎ちゃん」
白い生地に菊の焼き印が施されたお饅頭。それを頬張ると、ふわふわの食感と粒餡の甘みが口中に広がっていく。
「せれねは食べてるときの顔が一番幸せそうだ」
「う……。だって本当においしいんだもん」
「ははっ分かってる」
つい顔に出てしまうのが恥ずかしくて、私はお茶に口を付ける。それでも慎ちゃんは、まだくすくすと頬を綻ばせている。
「そ…そんなに笑わないで」
「ごめん。…でも可愛くて」
ちょっとむっとして慎ちゃんを見返すと、指先が唇をすっと撫でる。その指を口に含んだ彼は、また楽しそうに目を細めた。
「ここの粒餡、甘いな」
「なっ…慎ちゃん…急に」
「慎太」
「え?」
急に真剣みを帯びた声が耳に触れ、どきっとして固まってしまう。
「そう呼んでって何度も言ってるのに…。全然慣れないんだから」
私の髪を一束取り、溜息を吐く彼は呆れているようにも見えて。そんな表情を見せられると、今されたことも忘れて狼狽えてしまう。
「し、慎太さん…ごめんなさい」
「…謝るなら」
「こっちに来てくれる?」と私の返事を聞く間もなく、身体を引き寄せられる。翠色の濡れた瞳に見つめられ、私は為す術もなくその中に捕らえられてしまう。
「…慎太さ……」
「今日は…紅塗ってるんだね」
「え……う、うん…」
「…どうして?」
突然の質問の意味が分からず、私は首を傾げた。
「たまには良いかなって…それに、武市さんも似合う…って言ってくれたから…」
「…武市さん?何で武市さんの名前が出てくるの?」
「きょ、今日偶然来て…」
「……ふうん」
物言いたげに私を抱き締め、慎太さんはさらさらと髪を梳いていく。そして顔を近付けると、一段と低い声で囁いた。
「せれねは、まだ俺に嫁いだっていう自覚がないんだね」
「そ…そんなこと……」
「他の男と紅を付けて会うなんて…俺のこと挑発してるの?」
ぐっと私の顎を引き上げ、口付けを落とした慎太さんは、乱暴な手付きで口紅を拭った。
「せれねに紅なんて似合わないよ」
「んっ…いた…」
「あまり余計な心配掛けさせないでくれる?明日も仕事なんだから」
余計な心配ってどういう意味―?
そう聞き返す隙もなく、唇を嬲(なぶ)った指が着物の合わせ目へと差し込まれる。
「し、慎太さんっ……ここ、じゃ…」
「うん?でも、もう遅い、かな」
薄らと色付いた頬と絡まる視線に時が止まって。
誘(いざな)われるまま、私は瞼を下ろすしかなかった。