偽りの愛1(前編)


いつかこの想いを過去に出来たなら、私は目の前の人を愛せるのだろうか。
何度考えても答えが出ないその疑問は、いつも私の胸を苦しくさせる。

「…小娘」

障子の隙間から入り込んできた夜気に頬がひやりと冷たくなる。その瞬間、自分の目から温かいものが流れていることに気が付いた。

「なぜ、泣く」

唇を噛み締め、燃えるような瞳を向けるその人は、私の手をぎゅっと握り締める。私はその手を握り返すことが出来ないまま、その瞳にあの日の出来事を重ね合わせていた。


「―今日は良いお天気だね、以蔵」
「…相変わらず能天気だな。お前は」

抜けるような青空を見上げ、思い切り空気を吸い込むと、今が梅雨だということも忘れてしまう。けれど並んで歩く以蔵は、そんな私を見て長い溜息を吐いた。

「少しは警戒して歩け」
「む…。ちゃんと注意してるもん!」
「なら前を向いていろ。いつ新撰組と鉢合わせするかわからないんだぞ」

それに、と以蔵が続ける。

「遊びに行くんじゃない。武市先生を迎えに行ったらすぐに帰る」

ちらっとこちらに目を動かした以蔵は、頷く私を見て視線を正面に戻した。
その後を遅れないように歩く私には、だから一緒に行きたかったのだとは言い出せなかった。


『…寺田屋に来ることに決めたのか』
『うん。それでね、私…』

以蔵を頼ろうと思ったことに、特に深い意味はなかった。ただ、年齢が近いこの人なら、いろいろ話しやすいという気持ちがあったのかもしれない。

『…邪魔はするなよ。特に武市先生は尚更だ』

この台詞を聞いた時、武市さんはそれだけ忙しい人なんだと思った。
そしてそれは間違いではなかったけれど、その言葉が持つ意味はそれだけじゃなかった。

『ね、以蔵』

寺田屋のお世話になり始めて間もない頃、以蔵は本当に武市さんが好きなんだねと聞いたことがあった。彼の武市さんに対する言葉や行動は、日の浅い私でもわかるくらい深い敬愛が滲んでいたからだ。

『…先生は俺のすべてだ。俺が今こうしてここにいるのは、あの方のおかげだ』

視線を私から逸らし、そのまま立ち上がった以蔵は、薄らとその頬を上気させていた。一体武市さんってどんな人なんだろう。そんな疑問が湧いたのは、思えばあの時からだったのかもしれない。

『武市さん、武市さん』
『どうしたんだい、小娘さん』

けれど、私がそれを理解するのに時間は掛からなかった。冷静な仮面に隠れた、武市さんの優しい笑み。それは、私の中で彼の存在を大きくさせるのに十分だった。

だから、私は―。


「―おい、止まれ!」
「え?きゃっ…!」

以蔵の言葉で我に返った頃には、私の身体は路地に引き摺りこまれていた。
何が起きたのか尋ねようにも、私の口はきつく彼の手で覆われてしまっている。

「…新撰組だ」

小さいけれど鋭いその声に、心臓が嫌な高鳴りを始める。恐る恐る以蔵を見ると、ぎりっと歯を食いしばっているのが分かった。

「…この先は行き止まりだ。小娘、俺が奴等を引き付けている隙に、お前は先に長州藩邸へ行け」
「そんな…!それなら私が…!」
「良いから早くしろ!」

いきなりどんっと身体を突き放され、私は声を出すことも出来なかった。
次の瞬間耳に入ってきたのは、岡田以蔵だと叫ぶ聞き慣れない男の人の声だった。

(以蔵…!)

同じ羽織に身を包んだその人達は、我先にと私の横を掠めていく。私は彼らが走り去ったのを影から見届けると、長州藩邸への道を急いだ。

(早く…!早くあの人に知らせなきゃ…!)

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