恋風1(後編)


もし、私を抱き締めるこの腕があの人のものだったら、どんなに幸せだろう。
そんな淡い夢に眩惑され、私の視界はまた揺らぎそうになった。

「…急に悪かった」

背中に回った手が緩み、二人の身体が離れても、私は顔を上げられずにいた。私の頭にはさっきの彼の言葉が今も響いていて、どんな顔で高杉さんのことを見たら良いのかわからなかった。

「今夜は泊まっていけ。その顔じゃ、寺田屋に帰れんだろう」

熱を持った瞼に触れると、鏡がなくても赤く腫れているのが分かる。今までこんな顔を見られていたのかと思うと、私は急に恥ずかしくなってしまった。

「私、そんなにひどい顔してますか?」
「ああ。もう少しで東海道四谷怪談に出られそうだぞ!」
「ええっ!」

今更ながら顔を覆った私は、指の隙間から鏡を探してみる。そんな私の様子がおかしかったのか、高杉さんは突然高笑いを始めた。

「冗談だ!お前は本当に素直だな!」

そう言うと、彼は私の手を外させ、自分の方へと向かせる。
こんな時にからかう高杉さんにちょっとむっとしていると、彼はにやりと笑みを深めた。

「やっといつもの小娘らしくなったな。お前に泣き顔は似合わないぞ」

彼なりの心遣いにはっとし、私は喉まで出掛かっていた言葉を飲み込んだ。思わずその顔から目を離せずにいると、高杉さんの手が私の髪に触れる。いつもだったら私の髪を掻き乱すその手は、今日はまるで子どもをあやすように優しかった。

「でも、寺田屋のお手伝いもありますし…。やっぱり泊まるのは…」

そう口にはしたものの、本当は高杉さんの厚意に甘えてしまいたかった。そんなことを思っていると、彼は私の頭に手を置いたまま静かに言い放った。

「…お前は、今武市に会っても平気でいられるのか?」

心を見透かしたような彼の問いに、私は肯定することが出来なかった。それを返事と受け取ったらしい高杉さんは、暫くして笑いながら立ち上がった。

「無理するな。寺田屋には俺が言っておいてやる」
「…はい」

そう返事をすると、高杉さんの手が私の頭を思い切り撫で回す。
一人部屋に残された私は、ぐしゃぐしゃの髪を直しながら、夕日の色に染まった畳をぼんやり見ていた。

「…―忘れられん人がいてね。…その人もまだ独り身じゃったがやか」

耳に残るあの人の言葉が、私の胸を容赦なく締め付ける。それと同時に、あの晩の白粉の匂いが蘇ってきて、汚い感情がどろどろと溢れてくるようだった。

(…どうして今になって…)

壁に寄り掛かり目を瞑ると、嫌な想像ばかりが頭を巡る。
時折入り込んでくる冷気を含んだ風は、私の乾いた頬によく染みた。


―橙色の空が墨色に変わり始めた頃、仕事を終えた僕を待っていたのは、思わぬ人物だった。

「…なぜ小娘があなたの許に?」

苛立ちを隠しきれずにそう問うも、高杉さんは口を閉ざしたままだった。その普段とは違う彼の態度に、僕は疑義を抱かずにはいられなかった。

「小娘に何かあったのですか」
「…ともかく、だ。俺の口から言うことは何もない」

そう短く話し終え、部屋を出ようとする高杉さんを引き留めようとすると、外からすっと障子が開いた。

「お話し中、申し訳あらしまへん。武市はんに、またお人さんが来てはるんどすけど…」
「…一体誰ですか」

予定外の来客の間の悪さに、僕の口調は刺々しくなってしまう。
そんな僕を横目で見遣りながら、高杉さんは廊下に片足を踏み出した。

「島村富子はんとおっしゃる方どす」その名前に、高杉さんの足が止まる。彼は僕から視線を背けると、口許を微かに動かした。

「…小娘の涙の訳はこれか」

去り際に高杉さんはぽそっと何かを溢したようだったが、その声のすべてを聞き取ることは出来なかった。
僕は彼のいなくなった部屋で、隊服に仕舞っているそれに触れながら、唯一聞こえた小娘の涙という言葉に胸が痛むのを感じていた。

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