恋風1(前編)


麗らかな日和の今日は、昨日の空風とは打って変わって、春嵐が格子を揺らしている。まだ震えるような寒さが続く一方で、時季は緩やかに春へと移り変わり始めていた。

「ね、半平太さん」
「何だい?」

彼の腕の中から顔をもたげると、半平太さんはほんわかとした笑みをこちらに向ける。その表情と息も掛かりそうな二人の距離は、私の鼓動を一気に速めた。

「そ、そろそろお仕事の時間ですよね…?」

午後から大事なお仕事があると聞いてから、もう少なくとも一刻は経つ。だけど半平太さんは、そんな私の疑問に対して不機嫌そうに口許を歪めた。

「…小娘は、そんなに僕と離れたい?」
「え、そ、そういう意味じゃなくて…!でもお仕事が…」

慌てて言葉を選んでいると、背中に回された腕にぎゅっと力が籠る。そしてそれと同時に、私の耳に優しい声遣いが流れ込んできた。

「いずれ以蔵が呼びに来るだろう。…僕は少しでも小娘と一緒にいたいんだ」

その台詞を恥ずかしく思いながらも、私は返事をする代わりに彼の胸に顔を埋めた。
少しでも長く半平太さんと一緒にいたいのは、私も同じだったからだ。

「小娘、僕を見て?」

不意に顎を捉えられると、睫毛を伏せた彼の顔が近付いてくる。その暗黙の合図に未だ慣れない私は、戸惑いながらゆっくりと瞼を下ろした。

「…ん…はぁっ…」

次第に深みを増していく口付けに、自然と声が漏れる。絡みつく熱い舌の感触と混ざり合う水音は、私の頭を瞬く間に逆上(のぼ)せ上がらせた。

「…先生、そろそろお時間です」

急に襖の外から掛かった声に、私の身体が反射的に上下する。だけど半平太さんは、素知らぬ顔で私に口付けを重ねてきた。

「は、ん…ん…!」

彼の胸を押し返してみるけれど、男の人の力に敵うはずもない。
私の頭は朦朧とし始め、抗うことの出来ない快楽と微かに聞こえる以蔵の声が入り交じっていた。

「…先生?」

見られたくない心とは裏腹に、漏れ出る声はどうすることも出来ない。今の私には、以蔵が障子を引かないことをただただ祈るしかなかった。

「…いらっしゃらないのか」

溜息ひとつと独り言を溢した以蔵が立ち上がると、ぎしりと廊下が軋む。
その音とともに私から離れた半平太さんは、自身の唇を手の甲でゆっくりと拭う。その様子をぼんやりしながら見ていると、満足そうに頬を緩めている彼の口許がいつもよりも赤々しく艶めいていた。

「以蔵。先に表に行っていろ」
「…。え、せ、先生!?」

少しの間の後、驚きに声を張った以蔵が勢い良く格子を開け放した。
彼は半平太さんにぴったり寄り添う私を見るなり、口をぽかんと開けると立ち所に頬を紅潮させる。その表情に一気に羞恥を覚えた私は、視線を下に落とすより他なかった。

「で、では、俺は玄関にいますので…」

そう言い残し、以蔵はそそくさとその場を後にする。再び静けさを取り戻した部屋の中で私が一呼吸つくと、半平太さんはくすくすと小さく笑い始めた。

「…ひどいですっ!」

私は彼の腕を軽く叩きながら、態と語気を強めた。

「何をそんなに怒ってるんだい?」
「だ、だって!以蔵に見られちゃうところだったんですよ…!」

顔を俯かせながら抗議すると、半平太さんの手が私の両頬を包み込む。そしてそのまま、もう一度軽く口付けられた。

「小娘は、怒った顔も可愛いな」
「ま、またそんなこと言って…!」

すらっと言い放つ彼の言葉は、いつも私を動揺させる。それは、初めて出会った頃の彼からは想像もつかない台詞ばかりだった。

「さてと…そろそろ行かないとね」
「そうですね…え?」

右手に温かい感触を受けた途端、身体が引き上げられる。

「君もおいで。ここにいるより、一緒に来てくれた方が気が休まる」

龍馬や中岡が帰って来たら、君を放っておくはずがないからねと半平太さんは苦々しそうに口にする。
少しむくれた彼が何だか可愛くて、私は笑いを溢しそうになりながらその手を握り返した。

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