明けの春はあなたと(1)


相変わらず底冷えする日が続く暮古月。
その日の寺田屋の玄関には、立派な注連縄が飾られていた。

「女将さん、こんな感じでどうでしょうか?」
「そやね、あとちょい水を加えたらどやろ」
「はい」

今日は師走の晦日。
この時代では三十日が大晦日だと知った私は、女将さんにお蕎麦の打ち方を教えて貰っていた。

(あの人は…おいしいって言ってくれるかな…?)

最近気が付くと私は、彼のことばかり考えている。
いつもお世話になっている皆へのお礼になればと打ち始めたお蕎麦。
それなのに、いつの間にかあの人に一番に食べて欲しいと思っている自分がいた。

「後はそれを折り重ねて細く切るんどす。この駒板でしっかり押さえて…」
「女将はん、」

女将さんから包丁を受け取ると、聞き慣れない声が厨に響く。
見れば、それは寺田屋の仲居さんのひとりだった。

「忙しないとこすんまへん。女将はんにお人はんがお見えどす」
「お人はん?まあどないしまひょ」

女将さんは困ったように私と仲居さんを交互に見た。
今日は年の瀬と言うこともあり、女将さんは朝から雑務に忙殺されているようだった。

「女将さん、私なら大丈夫です」「そうどっか…?ほな、またすぐに戻るんやさかい。小娘ちゃん、かんにんどっせ」

不安そうな面持ちで厨を出る女将さんを笑顔で見届け、私はお蕎麦に視線を戻した。
細く切るだけならきっと私にも出来る。
そう思っていたのに…。

「…どうして上手く切れないの?」

私は自分が切った麺を見て、ひとり嘆いた。
駒板という定規のような物を使って切っているのに、何故か線ががたがたになってしまう。

(これじゃ、食べてもらう以前の問題かも…)

自分の不器用さに落ち込んでいると、こっちに向かって足音が聞こえてくる。
女将さんが戻ってきたのかと思い後ろを向くと、その人は厨の入り口で足を止めた。

「姉さん、何してるんスか?」

視線の先にいたのは、仕事を終えて帰ってきた慎ちゃんだった。
彼は私の傍に寄ると、切りかけのお蕎麦を見つめた。

「これは、晦日蕎麦ですか?」
「うん、でもなかなか上手く切れなくて…」

私は包丁を握り締め、さっきと同じように駒板を押さえる手に力を込める。するとその時、何かに包まれたように手がふっと温かくなった。

骨張った大きな手。
それは紛れも無く、後ろに寄り添う彼の物だった。
何も話さない慎ちゃんに戸惑いつつも包丁を入れると、今度は綺麗に切ることが出来た。

「…押さえる力が少し足りないのかもしれません。俺も手伝います」
「あ、ありがとう…」

厨に響き渡る包丁の音。
節くれ立った男の人らしい手にぼうっとしながら、私はお蕎麦を切り終えた。

「―おいしそうどすなぁ。皆はん喜びまんねんな」

あれから慎ちゃんはまた仕事に出掛けることになってしまって、私は女将さんとお蕎麦を作り上げた。
もう大分経つのに、あの時の彼の温もりは未だに私の身体に余韻を残していた。

「ところで、小娘ちゃん。見せたい物がおますんどすけど、ちょいええ?」
「?はい、大丈夫です」

不思議に思っていると、女将さんは私を自室に招き入れた。
そして押入れの中から取り出したそれを私に着せると、柔らかく微笑んだ。

「わあっ…綺麗な振袖ですね」
「こないだの煤払いの時に見つけたんどす。こら、うちが昔着とった振袖どすねんけど…。小娘ちゃん、貰ってくれまへんか」
「えっでも…」

慌てる私を余所に、女将さんはゆっくりと話し始める。

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