涙雨(1)


瞼の裏を照らす眩しさに睫毛が揺れ、色付けられた景色が徐々に視界を染めていく。だが、この日僕を目覚めさせたのは、陽射しではなく襖越しに聞こえる二人の声だった。

「中岡、静かにせんか!小娘さんが起きるじゃろう!」
「龍馬さんの方こそ静かにして下さいッス!そもそも、どうして龍馬さんが姉さんの部屋にいるんスか!?」

耳を劈(つんざ)くような言い争いに身体を起こし、声がする方の襖に手を伸ばす。すると、互いの着物を掴み合っていた龍馬と中岡の視線が同時に突き刺さった。

「お、おう、武市か。おどかすな」
「そんな大声を出しておいて、おどかすなも何もないだろう。朝から小娘さんの部屋で何をしている」
「武市さん、聞いて下さいッス!」

龍馬から手を離した中岡は、憤りを隠そうとせぬまま眉根を寄せた。

「龍馬さん、姉さんの部屋に夜這いに来たんスよ!」
「な…!何を言うがかえ!わしはただ小娘さんの寝顔を見に来ただけじゃ」

また口論を始める二人に挟まれた小娘さんは、気持ち良さそうにすやすやと寝息を立てている。当の本人は余程夢見が良いのか、時折その口許には笑みが浮かんでいた。

(やれやれ…)

「未来の日本から来た」と突拍子のないことを告げた小娘さんと暮らし始めて、もう幾日が経つだろう。
最初こそ彼女が間者ではないかと疑っていたものの、今ではその蟠(わだかま)りは消えつつある。

「武市さん、こっちです!」

かつての門弟に見事な一太刀を与え、小娘さんが僕を連れて逃げたのはついこの間のことだ。自分だけ逃げれば良いものを、よりによって彼女は勝算のない相手に立ち向かっていった。

「私…武市さんを助けたくて…」

叩(はた)かれた頬を押さえ、僕を見つめる小娘さんは唇を震わせていた。とても演技とは思えないその表情と行動は、彼女の人となりが如実に表れているように思えた。

―小娘さんは強い。
恐らく彼女は、味方であれ敵であれ、誰かを見捨てることの出来ない質(たち)なのだろう。

(…こんな女子は初めてだ)

守るべき存在に守られるとは、何とも不思議な気持ちだった。それだけに、小娘さんに心惹かれる者の想いが分からないでもなかった。

「…俺の話聞いてますか?武市さん」

不機嫌そうな声に我に返ると、相変わらず顔を顰(しか)めた中岡と視線が被さった。

「ああ。夜這いとは心穏やかじゃないな、龍馬」

視線を横に動かした僕は、呆れ半分に溜息を溢す。すると、龍馬は僕の言葉に答えることなく、頬を赤らめたまま眉を吊り上げた。

「武市はそんなことを言えた口か」
「どういう意味だ」
「おんし、今小娘さんを助平な目で見ちょったじゃろう!」
「なっ…!馬鹿なことを言うな!」

思わずその胸に掴み掛かろうとしたとき、小娘さんの唇が微かに動く。その表情に僕らがはたとすると、ゆるゆると彼女の瞼が上がり始めた。

「ん…?武市さん…と龍馬さん…に慎ちゃん…。おはようございます…」
「あ、ああ…おはよう」
「おはようございます、姉さん」

目許を擦り、小さく欠伸をした小娘さんは、未だ状況を飲み込めぬ様子で瞬きを繰り返している。それを見た龍馬は、些(いささ)かばつが悪そうな顔で腰を上げた。

「小娘さん、起こしてしまってすまんかったのう」
「いえ、そんな…。大丈夫です」
「もうすぐ朝餉じゃ。また後での」

身体を布団に預けたままの小娘さんの頭を撫で、龍馬は部屋を出ていく。それを追うように「お騒がせしてすんません」と詫びを口にし、中岡は部屋を後にした。

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