星降り(1)
朝風に運ばれてきた蝉の声に混ざり、懐かしい音が耳を打つ。
私がそれに気が付いたのは、まだ意識が夢と現実を行き来しているときだった。
「半平太さん…?」
隣に眠っているはずの彼を見るも、既に布団は綺麗に畳まれている。ぼんやりとそれを眺め、徐々に意識がはっきりしてくると、また竹刀を打ち合う音が聞こえてきた。
(朝稽古、してるのかな…?)
眠い目を擦りながら起き上がり、障子の方向に顔を向ける。その瞬間、視界に映る壁を見て、私はここが自分の家じゃなかったことを思い出した。
(半平太さん、どこに行っちゃったんだろう?)
いつもなら恥ずかしい台詞を並べ立てて悪戯っぽく微笑む顔が今日はない。
それは、知らない場所に一人きりでいる不安と心細さを増長させた。
(とりあえず、着替えて何かお手伝い出来ることがないか聞きに行こう)
浴衣から持ってきた着物に袖を通し、私は昨日の記憶を頼りに井戸へと足を向けた。
半平太さんと出会って三度目の夏。
彼の傍に残ると決めたあの日から、私の心はずっと幸せで満たされていた。
「どうですか…?」
「うん、おいしい」
目の前の料理を口に運び、優しい笑みを見せてくれる彼に自然と顔が綻ぶ。一緒に住んでいるとはいえ、こうして半平太さんと一日の最後をゆっくり過ごせるのは久しぶりのことだった。
「ラタトゥイユっていうんです。お口にあって良かった」
「らた…?小娘はいろんな料理を知ってるんだな」
「ふふ、たまたま思い出したんです。あ、それと今日はお饅頭も買ってきたんですよ」
半平太さんの好きなつぶ餡のお饅頭を厨に置いたままだったことを思い出し、私は腰を浮かす。けれど、障子に手を掛けようとする間もなく、私の足は彼の声で止まってしまった。
「小娘」
「?はい」
振り返ると、持っていたスプーンをお皿に置いた半平太さんがじっと私を見つめている。正確に言えば、その視線は私の顔ではなく左手に注がれているようだった。
「ちょっとこっちに来なさい」
どこか厳しいその口調に、どきっと鼓動が跳ねる。言われるままに彼の傍に腰を下ろすと、半平太さんは静かに私の手を取った。
「もう手当てはしたのか?」
「え?」
その言葉に顔を落とすと、よく見ないと分からないくらい小さな火傷が出来ている。けれど、これくらいの傷は日常茶飯事だけに、私は大して気に留めていなかった。
「いえ。でも、何もしなくてもすぐ治っちゃいますよ」
そう私が口にすると、半平太さんは声を尖らせた。
「痕になったらどうするんだ。薬を持ってくるから待ってなさい」
「薬」という単語にすっと顔が青ざめる。明治になっても、傷薬といえば私の大嫌いなあれしかない。
「嫌っ!がまの油を塗るくらいなら痕になった方が良いです!」
「こら。わがまま言うんじゃない。」
「絶対嫌ですっ!そんなこと言う半平太さんなんて嫌いですっ」
咄嗟に手を引っ込めようとするも、彼の力が緩むことはない。それでも私が抵抗し続けていると、ふと大きな溜息が下りてきた。
「…それは困る」
その声が耳に入った瞬間、ぐいっと手を引っ張られる。驚いて顔を上げた私は、視界に映る光景を見て思わず口が塞がらなくなった。
「は、半平太さん…!?」
つっと手に伝う柔らかな感触。
形の整った唇から覗く熱っぽい舌がゆっくりと動き、火傷をなぞっていく。
「小娘が聞き分けのないことを言うからだ。大人しくしていなさい」
そんなことを言われても、これはこれで恥ずかしい。けれど、自分のことを心配してくれる彼を無下に出来るはずもなかった。