偽りの愛2(前編)
私はただ祈ることしか出来なかった。
自分を犠牲にして囮になってくれた以蔵を助けるには、一刻も早く長州藩邸へ行くしかない。今の私を支えているのはその思いだけだった。
(あの角を曲がったら、長州藩邸のはず…!)
着物が着崩れているのも構わずに走っていた私には、その角に人がいることに気付かなかった。どんっと大きな衝撃を受けたかと思うと、私の身体は後ろによろめいた。
「きゃっ…!」
「小娘さん!?」
倒れ込むと思い、目をぎゅっと瞑っていた私は、聞き慣れたその声に瞼を上げた。眉を顰(ひそ)め、怪訝そうな顔付きをしたその人は、転びそうだった私の身体をしっかりと支えてくれていた。
「武市さん…!」
「二人とも随分遅いと思っていたんだが…。以蔵はどうしたんだい?」
武市さんの顔を見た途端、緊張の糸がふっと緩む。それと同時に、私の目には温かいものが溢れ始めた。
「武市さん、大変なんです…!以蔵が新撰組に見つかってしまって…!」
「な…!」
泣いていても仕方ないのに、涙は次から次へと零れ落ちてくる。すると次の瞬間、骨張った大きな手が私の両頬を包み込んだ。
「小娘さん、大丈夫だ。以蔵はそう簡単に捕まるような男じゃない」
「武市…さん」
腰を落とした武市さんの口振りは、まるで小さい子を宥めるようだった。突然泣いてしまったことを反省した私は、こくんと頷くと両手で目を擦った。
「良い子だね。ひとまず君は、長州藩邸で待っていなさい」
「はい…」
そっと私の手を取ると、武市さんは踵を返した。その手の温かさと彼の広い背中は、私を不思議な安心感で包んでくれるようだった。
「…小娘さん、まだ起きているのかい?」
玄関に座り込み、じっと戸を見続ける私の耳に、桂さんの優しい声が入ってくる。日も変わり、いつもは賑やかな藩邸もすっかり寝静まってしまったというのに、まだ何の連絡も入ってこなかった。
「夕餉も食べていないんだろう?このままでは、君が先に参ってしまう」
心配そうに眉を下げる桂さんに、私は小さく首を振った。
「私は大丈夫です。それに、武市さんも高杉さんも…以蔵も食べてないと思いますから…」
そう口にした瞬間、玄関の外が急に騒がしくなる。思わず立ち上がった私は、勢い良く戸を開け放った。
「以蔵…!」
真っ先に目に飛び込んできた以蔵の姿は、別れた時から何も変わっていないように見える。
けれど、それが大きな間違いであることに気付くのに時間は必要なかった。
「あ…」
彼の着物に飛び散った赤黒い染み。
それは、以蔵がここに来るまでの凄惨さを如実に物語っていた。
「まだ起きていたのか」
その姿に言葉もなく立ち尽くしていると、以蔵が私の横を通り過ぎる。
彼の後ろ姿から前に視線を戻すと、口を真一文字に結んだ武市さんと目が合った。
「今宵は、このまま長州藩邸の世話になろう。遅くまで悪かったね」
「あ…以蔵は…大丈夫でしょうか…」
「小娘さんが気に病むことはないよ。君ももうおやすみ」
私の頭を撫でた武市さんは、そのまま廊下の奥へと消えていく。その優しい温もりを感じながらも、あの赤黒い染みを忘れることは到底出来なかった。
「…以蔵、入っても良い?」
「ああ」
いつもの無愛想な返事に障子を開けると、夜着を纏った以蔵が目に映る。そしてその傍らには、あの着物が乱雑に畳まれていた。
「怪我はない…?」
「ああ、大丈夫だ。…あれは、全て相手のものだからな。」
それを聞きほっとする一方で、私の心は相変わらず晴れなかった。その着物を手に取り、胸でぎゅっと抱き締めると、独特の匂いが鼻を掠めた。
「ごめんね…以蔵…。私さえ一緒に来なければ、こんなことせずにやり過ごせたかもしれないのに…」
「…泣くな。お前のせいじゃない」
「でも…」
私は以蔵に躙(にじ)り寄り、その袖をつっと引っ張った。
「以蔵…すごく辛そうな顔してるから…。だから…私に何か出来ないかなって…」
人を傷付けたことのない私に、彼の苦しみを癒してあげたいと思うことはおこがましいことなのかもしれない。それでも、こんな以蔵を放っておくことは出来なかった。
「…小娘」
その声が耳に届くのと同時に、身体が大きくバランスを崩す。一瞬何が起きたのかわからずにいると、以蔵が真剣な眼差しで私を見下ろしていた。