追憶(2)


浅葱の紋付に袖を通し、帯を締めたあの瞬間、この定めを受け入れる覚悟は出来ていた。だが唯一気掛かりだったのは、以蔵を始めとしたあの四人のことだった。

(僕が彼等を死に追いやったようなものだな…)

「先生」と呼ばれる身でありながら、その命を救えなかった上、門弟に下された刑は腹を切れぬものだった。
それが武士として生きてきた彼等にとっていかに恥辱的なことであるか、考えれば考えるほど腸がちぎれる思いだった。

「…世話になった」

牢番と最後の挨拶を交わし、歩みを進めた僕を待っていたのは、一面に砂が撒かれた広大な庭だった。
そして、その先に敷かれた小さな置き畳は、僕が腰を下ろすのを今か今かと待ち構えていた。

「おお、漸く来たか。待ち詫びたぞ、武市」

上段の座敷の正面でさも嬉しそうな笑みを湛えこちらを見ていたのは、あの後藤象二郎だった。恐らくこの男は、今宵が来るのを一日千秋の思いで待っていたに違いない。

幼き頃より、上士の身分を鼻に掛けたこの男に、何度苦汁を飲まされたことだろう。
そんな恨み辛みしか感じぬ後藤に自身の最期を見届けられることになろうとは、この上なく屈辱的だった。

「のう、武市。何か最期に言いたいことはないのか」
「ございません」
「―…!」

怒りで見る見るうちに赤くなる後藤の顔をちらりと見返し、僕は懐剣を手に取った。この男は僕が命乞いする姿を見たかったのだろうが、生憎そんな気は更々ない。

(…後悔などしていない)

冷たく光る刀身に、月明かりがきらりと反射する。ふと空を仰げば、青白く澄んだ月が僕を見下ろしていた。

その美しさを瞼の裏に焼き付け、手許の切っ先を自身に向ける。
だがその時、轟くような一発の銃声音が僕の耳をつんざいた。

「遅くなってすまんのう、武市!」

聞き覚えのある声に顔を上げると、そこには拳銃を片手に微笑む龍馬が立っていた。

「坂本…!貴様何のつもりだ!」

怒号する後藤に構わず、龍馬はゆっくりと歩みを進めていく。そして僕の傍で足を止めると、その銃口を真っ直ぐに構えた。

「わしは幼なじみを助けに来ただけじゃ。…すまんが道を開けてくれんかのう」

わなわなと震える後藤に向けられた拳銃がかちっと音を立てる。有無を言わせぬその柔らかい笑顔に、最早逆らう者は誰一人いなかった。


「今頃、中岡が以蔵を助け出しとる頃じゃろう。ここがその待ち合わせ場所なんじゃ」

先程とは打って変わって和やかに笑うと、龍馬は寂れた神社に足を踏み入れた。だが僕は、自分が助かったことを手放しに喜ぶことは出来なかった。

「…なあ、武市」

いつまでもその場に立ち尽くす僕を見た龍馬は、その心中を察したように口を開いた。

「気持ちはわからんでもないが…おんしを必要とする者のために生きてくれんか」
「…そんな人間、いないだろう」
「いや、」

吐き捨てるように言い放つ僕の隣に並ぶと、龍馬の顔が月に照らされる。

「少なくとも、わしにはおんしが必要じゃ。中岡と以蔵にものう」


―思えばあの日から、僕は彼等とともにこの国を変えるために生きてきた。
だが、それが実現しようとしている今、もう僕を必要としている人間はいないのではないだろうか。

(この身に何が起きようと…受け入れるべきなのかもしれない)

そんなことを考えていた時だった。

「―…!」

ぽすんと背に軽い衝撃を受けた直後、小さな手が胸許を掴む。それと同時に聞こえてきた啜り泣く声に、僕は現実に戻された。

「…小娘さん?」
「勝手に入ってっ…ごめんなさい…。でも、でも…」

ぎゅっと着物を握る力とは反対に、彼女の声は弱々しかった。

「武市さんが泣いているような気がして…。どこか遠くに行っちゃう気がして…私…」

涙を流しながらそう話す彼女に、龍馬の言葉が頭を過る。

「―おんしを必要とする者のために生きてくれんか」

小娘の手に自分の手を重ね合わせ、ふっと笑みを溢す。
気が付けば、机上の花びらは桃色に変わり、僕の心にも温かいものが生まれ始めていた。

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