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「―…武市さんが好きです」
そう告げる彼女の身体は、思っていたよりもずっと華奢で柔らかい。
そのまま抱き締めてしまいたい衝動に駆られながらも手を回せずにいると、彼女は蕩けそうな瞳で僕を仰ぎ見た。
「武市さんは…?」
口を開き掛けるも、瞼の裏が徐々に明るくなっていく。
朝の訪れを知らせる合図に瞳を開けば、僕の顔には穏やかな陽が降り注いでいた。
(また、か…)
陽射しに目を細め、幾度となく見る夢に思いを馳せる。もう何日もまともに顔を見ていないと言うのに、僕の頭には鮮明に彼女の顔が浮かび上がる。それはまるで、日を経つごとにこの想いが増幅しているように思えた。
(そんな馬鹿なこと…ある訳がない)
そう自分に言い聞かせるも、最早その言葉では片付けることが出来ないほど、僕の中で彼女の存在は大きく膨れ上がっていた。けれども、薩摩と長州の橋渡しを役目とする僕にとって、己の恋情に現を抜かす暇などあってはならない。
(あれは、ただの夢だ)
この日も僕は、そう自分を戒めながら、廊下へと足を踏み出した。
「きゃっ!」
とんっと胸に当たった小さな衝撃を受け止めると、栗色の髪が視界に広がる。その一瞬、僕は彼女を抱える腕に力を入れてしまいそうになった。
「あっ…!おはようございます、武市さん」
頬を桃色に染めながら僕を見上げるその姿に、今朝の夢が自然と重なる。けれど夢と違ったのは、慌てて彼女が僕から離れていったことだった。
「すみません!ちょっと急いでいたもので…」
見ると、ぶつかった衝撃のせいか彼女の鼻が微かに赤くなっている。その様子に思わず手を伸ばすと、彼女がびくっと身震いした。
「赤くなってしまったね」
「あっ…」
僕がその顔を一撫ですると、彼女は両手で鼻を覆い隠した。
「本当にごめんなさい…。今度から気を付けます」
駆けていく彼女の後ろ姿を見つめたまま、僕は伸ばした手を下ろした。やはり夢は夢のままなんだと、強く思い知らされたような気分だった。
「―なんじゃ、武市。溜息なんぞつきおって」
昼餉を終え、会合予定の広間で桂さんを待っていると、龍馬が僕の顔を覗き込んだ。どうやら僕は、無意識に朝の出来事を思い出していたらしい。
「…いや。桂さんにしては珍しいと思ってな」
心中を気付かれぬよう言葉を返すと、龍馬も腕を組みながら頷く。
そうして約束の時刻を大分過ぎた頃、漸く桂さんが姿を現した。だが、その顔付きは何か心配事を孕んでいるように見えた。
「…何かあったのですか」
僕がそう問い掛けると、桂さんは茶飲みから口を離した。
「実はここに来る途中、彼女に会ってね。道を教えて欲しいと頼まれたんだ」
真剣な面持ちを崩さないまま、桂さんは更に言葉を続けた。
「ただ、あの辺りは最近新撰組がよく見廻っているところだから気に掛かってね。増して、彼女は一人きりだったものだから」
「新撰組」という言葉を耳にした途端、身体が急速に冷えていくのを感じた。
気が付けば僕は、二人を部屋に残し、寺田屋の玄関に手を掛けていた。
「た、武市さん!?どうしてここに…」
漸く見付けた彼女は、咲き誇る花畑の中にうずくまっていた。今朝と変わらぬその姿に安堵の息を漏らした僕は、思わずそのまま彼女を抱き締めた。
「…から…」
「たけちさん…?」
不安そうに僕の名を呼ぶ彼女に、抑えていた気持ちが溢れ出す。
「頼むから、もうこんな心配掛けさせないでくれ…!」
骨が軋むほど彼女を抱き締めると、あっと小さな声が漏れる。それでも手を緩められずにいると、彼女の手がおずおずと僕の背中に回ってきた。
「ごめっ…んなさい…、武市さん」
涙声になった彼女から、次第に嗚咽が聞こえ始める。僕は小さな温もりを感じながら、自分の想いを隠し続けることが出来ないことを悟った。
「…これを、武市さんのお部屋に飾ろうと思ったんです」
赤くなった目を擦りながら、彼女は地面にばらけた草花を手に取った。
「以前ここを通った時、武市さんもお花が咲くのを楽しみにしていたでしょう?だから、少し摘んでいこうと思って」
「そうか…。僕は君に嫌われているんだと思っていたよ」
え?と目を丸くする彼女に、最近避けられてばかりだからと溢すと、その顔は急に赤みをさし始めた。
「そ、それは、だって!仕方ないです…」
「どうしてだい?」
言葉に詰まった彼女は暫く無言のままだったが、やがて視線を下に向けたまま口を開けた。
「武市さん。目を瞑って少し屈んで貰えませんか?」
「…?…ああ」
疑問を抱きながらも彼女の言葉通り瞼を下ろし、腰を屈める。
すると、肩に手が掛かったと思った瞬間、温かな感触が唇に伝わってきた。
(……!)
ちゅっと小さな音に瞳を開けると、仄かな甘い味が口中に広がる。思わず唇を押さえながら彼女を見ると、膝上に置いた手許にはさっきの草花が握られていた。
「…これが私の気持ちです」
彼女は僕の胸に身体を預けると、背中をきゅっと掴んだ。
「私…武市さんが好きです」
消え入りそうな声で話す彼女は、閉口したままの僕をじっと見つめる。その熱っぽく揺れる瞳は、あの夢の中で見た姿と同じだった。
「このお花の蜜、結構甘いですね」
赤い顔で微笑んだ彼女は、花にそっと口付けをした。僕はその手を取り、それを自分の方へと引き寄せた。
「僕も…君が好きだ」
彼女の腰を抱きながら告げれば、その瞳がまたじんわりと濡れていく。
それは、春風が音を鳴らし始めた、穏やかな日の出来事だった。