恋風3(後編)


私は一緒に来てくれた藩邸の人にお礼を言い、寺田屋の戸を開けた。薄暗い廊下につまずきそうになりながらも、足は自然とあの人の部屋に向かった。

(半平太さん…もう寝ちゃったかな…)

着崩れた着物も構わずに階段を上がり、彼の部屋が見えると、急に心臓がばくばくと音を鳴らす。私は一歩一歩廊下を進みながら、半平太さんの部屋の前に座り込んだ。

(…もしも、)

嫌な想像が頭を過り、私は障子に伸ばした手を止めた。

(半平太さんと富子さんが一緒にいたらどうしよう…)

寄り添う二人が頭に浮かび、私はぎゅっと目を瞑った。今の私に、その現実を受け入れる勇気はとてもなかった。

(それに、もしかしたら半平太さん寝ちゃってる…かも)

障子には薄らと明かりが透けているものの、部屋からは物音ひとつ聞こえない。
だけど、仮に寝ていたとしても、どうしても私は彼の顔が見たかった。

「半平太さん、起きてますか…?」

小さく彼の名を呼んでみるものの、返事はない。暫くして、私は迷いながらも障子をゆっくりと引いた。

「きゃっ…!」

突然腕を掴まれ、バランスを崩した私の身体は前のめりになる。思わず声も出せずにいると、私の耳許であの人の声が響いた。

「…小娘」

顔を上げると、さらさらとした細い髪が頬に落ちる。くすぐったい感触に目を細めながら、私はその人を抱き締めた。

「帰って来ちゃいました…」

だけど、半平太さんは私を受け止めたまま動かなかった。顔もよく見えない彼に不安を感じ始めた時、急に視界が反転した。

「はんぺいたさん…?」

両手を畳に縫い付けられ、おどおどする私に、彼は冷たく言い放った。

「小娘。僕は、怒ってるんだよ」
「え…?」

その言葉が聞こえた瞬間、私の耳はすっぽりと彼の手に塞がれてしまった。

「…んっ…!」

噛み付くようなキスが唇を封じ、私の頭は真っ白になる。
外界が遮断された頭の中には、いやらしい音だけが響き、それがますます私に羞恥をもたらした。

「はぁっ…んっ…」

離れたと思っても、またすぐに二人の唇が重なる。朦朧としていく意識の中で、私はぼんやりと彼の言葉を聞いた。

「高杉さんのところに泊まるだなんて、僕がどれほど心配したか君はわかってるのかっ…!」

きつく私を抱き締めるその腕は、微かに震えていた。

(半平太さんも私と同じだったの…?)

ずっと胸に重くのし掛かっていた不安が溶けていく。私は半平太さんの背中をぎゅっと抱きながら、彼の胸に顔を擦り寄せた。

「ごめんなさい…半平太さん。でも私が好きなのは、あなただけです…」

そう口にしたら、安心したせいか急に眠気が襲ってくる。私の意識は、彼に抱かれたままそこで途切れた。


あどけない寝顔で眠る小娘を見ていると、自然と頬が緩む。僕は彼女の背中を撫でながら、外にいる人物に声を掛けた。

「…忘れ物かい?」

障子の開く音に視線を移すと、そこには彼女が立ち尽くしていた。富子さんは小娘を抱く僕を見ながら、複雑な笑みを作った。

「…わかっちょったがことやった」

ふぅっと息を吐くと、彼女は小娘に目を向けた。

「あの日、小娘ちゃんがお茶を零した時…あがに狼狽えた貴方を初めて見ちゅう」

僕はそれに答える代わりに、小娘の手を強く握り締めた。

「…武市さん。もし、小娘ちゃんがいなかったら…ちくたあ、あしとのことを考えてくれちゅうか…?」

富子さんはその場から動かぬまま、僕に問い掛ける。けれど、その問いは僕にとって愚問でしかなかった。

「…それはないだろう。そもそも、僕は小娘がいない世界など、考えたこともない」
「…そうなが」

そう答えると、彼女は僕に背を向けた。

「これで、ようよう諦められそうやか。…小娘ちゃんと幸せになっとおせ」
「…ああ。君も」

ぱたんと障子が閉まり、部屋からは小娘の寝息しか聞こえなくなる。僕はその頬に口付けをし、彼女を布団に運んだ。


「…ん…」

ふと目を覚ますと、寺田屋の高い天井が私を見下ろしている。いつの間にか眠ってしまったことに気付き、そのまま横に寝返りを打つと、あの人の隊服が目に入った。

「半平太さん」
「ん?起こしてしまったかい?」

文机から顔を上げ、私の傍に腰を下ろすと、彼の手が私の頬に伸びた。

「…夢を見ていました」
「夢?」
「はい。とっても幸せな夢…」

私は目を閉じて、夢で言ってくれた彼の言葉を思い出す。
それは、私の心を幸せで満たしてくれる言葉だった。

「…―僕は小娘がいない世界など、考えたこともない―」

「…小娘。そのまま目を閉じていてくれる?」
「え?…は、はい」

開き掛けた目を瞑ると、半平太さんが私の左手を取る。すると、薬指に冷たい感触が走った。

「…もう良いよ」

その言葉と同時に瞳を開くと、私の薬指にはピンクゴールドの指輪が光っていた。

「半平太さん…?これ…」
「左手の薬指は、『愛の証』なんだろう?」

そう微笑むと、彼は私の左手に唇を落とした。

「君が僕のものだという証…。僕が愛してるのはこの先も小娘だけだ」

私は高杉さんとの会話を思い出しながら、彼と手を交互に見る。思わず私の瞳からは、また涙がぽろぽろと溢れた。

「ほら、泣かないで」

そう言って涙を掬うと、半平太さんはまた私を抱き締める。
私はその温もりに幸せな気持ちになりながら、吹き始めた春の風を聞いていた。


恋風…恋心のせつなさを、風が身に染みるのにたとえていう語。(大辞泉より抜粋。)

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