恋風2(後編)


長かった一日が漸く終わり、皆が寝静まっても、私は布団の上でぼうっとしていた。
眠ればこの現実から逃れられると思っていたのに、今の私にはそれすら難しいことのように思えた。

「…小娘、入って良いか?」
「はい。…ちょっと待って下さい」

普段なら断りなく入ってくる高杉さんを意外に思いながら、私は傍にあった手鏡を引き寄せた。さっきよりは大分ましになった目許を確認し障子を引くと、灯りが弱いせいなのか、彼の表情は暗く見えた。

「飯は食ったのか?」
「はい。桂さんは本当にお料理が上手ですね」

食欲なんて全然なかったけれど、桂さんはそんな私を見越したように、喉を通りやすい物ばかり作ってくれた。彼の心遣いが詰まった料理はどれもおいしくて、今の私には幸せな一時だった。

「そうか。なら良かったな」

なんとなくぎこちない高杉さんを不思議に思いながら、私は小さく頷く。
そのまま黙る彼を見つめていると、夜風のざわめきと同時に、その唇が動いた。

「…小娘」
「は、はい」

張り詰めていた空気を破ると、高杉さんは重苦しそうに私の名前を呼んだ。

「あの女は、武市の知り合いか…?」

突然のことにびくりとした私に、高杉さんは距離を縮めて話し続ける。

「さっき、お前のことを伝えに武市に会ってきた」

半平太さんの名前が出てきた途端、心臓がどくんと高鳴る。けれど、私はそれを気付かれないように、黙って彼の続きを待った。

「そうしたら、その、帰り際に…」

言いづらそうに顔を背けると、高杉さんは口を濁した。そんな彼を見て、私はあの人のことを思い出さずにはいられなかった。

「高杉さん、もしかして富子さんに会ったんですか?」
「…ああ」
「そう…ですか…」

自分で聞いたことなのに、私はそう答えるのがやっとだった。高杉さんの視線を感じながらも、今の私には彼の前で気丈に振る舞える自信はなかった。

「…小娘。もう寺田屋には帰るな」

その言葉が耳に届いた頃には、私の目に彼の姿は映らなくなっていた。彼の肩越しに並ぶ規則的な障子の目をぼんやり見ていると、高杉さんが私の耳許で口を開いた。

「俺はお前の悲しむ顔なんて見たくない。だから…」

高杉さんは身体を離し、私の右手に何かを握らせる。ゆっくり手を開くと、そこにはあの指輪が光輝いていた。

「ずっとここにいろ」

力強い言葉に視線を落としたまま、私は指輪にそっと触れた。
この胸に飛び込んでしまえたら、きっと楽になれる。だけどそれは、あの人を忘れることを意味していた。

「…ごめんなさい…」

堪えていた涙が頬を伝うと、そのまま指輪に零れ落ちた。

「もし半平太さんの気持ちが私から離れても…あの人が好きなんです。だから…これは受け取れません」

私がずっと恐れていたのは、半平太さんが富子さんを選ぶことだった。けれど、もしそうなったとしても、この気持ちが誰かに移るなんて考えられなかった。

「…そうか」

短く返事をすると、高杉さんはそれを手に取った。私は涙を拭い、指輪を見る彼の顔に視線を向けた。

「私、やっぱり寺田屋に帰ります。…今日はありがとうございました」


夜空を覆っていた黒い雲が流れ、金色の月が暗夜に浮かび上がる。ぽっかりと穴を開けたようなその景色は、まるで今の俺の心を投影しているかのようだった。

「…晋作?」

あいつの匂いが残る部屋で空を仰いでいると、廊下がみしりと軋む。その音に視線を移せば、小五郎がこちらを見下ろしていた。

「夜風は身体に障る。それに、明日も早いのだから」
「ああ、わかってる」

伸びをしながら立ち上がると、小五郎は複雑そうな笑みを浮かべていた。俺は何も言わずにその横を通り過ぎ、寺田屋の方に目を向けた。

―もし、この胸がこんな厄介なものさえ抱えていなければ、愛しているから行くなと告げたかった。だが、そんなことを言ってしまえば、この先小娘を苦しめてしまうことは目に見えていた。

「…お前には幸せになって欲しい」

小娘の顔を思い浮かべ独り言を呟きながら、俺は自室の戸に手を掛けた。

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