clap(2/13〜3/21)
目慣れた揚げ戸に浮かび上がる二つの片影。
微かに聞こえてくる話し声に構わず戸を引き放てば、やや慌てた素振りの二人と視線が重なった。
「お、大久保さん!」
驚いて目を見張る小娘の顔が、忽ち紅葉を散らしたように紅くなる。
けれどもそれは、眼前にいる男も例外ではなかった。
「…こんなところで何をしている」
訝しみながら問えば、先程から微動だにしなかった武市君の手が小娘の項から滑り落ちる。
それと同時に、結われていた長い髪はぱさりと肩に広がった。
「何でもありません。…それじゃ、行ってくる」
「あ、は、はい!」
小娘の髪をさらさらと整え、すっと武市君が立ち上げる。
その顔は柔らかい笑みに満ちており、この男にもこんな表情が出来るのかと些か驚かされた。
「大久保さん」
だが、そんなことを考えていたのも束の間、擦れ違い様にぽつりと呟く彼の声はこの上なく冷ややかなものだった。
「…彼女に手を出されては困ります」
そう言い残し、武市君は暖簾を潜ると静かに戸を閉ざす。
私はその言葉を聞き捨てながら、未だに頬を赤らめる小娘に視線を戻した。
「あ、あのっ…ところで、大久保さんはどなたに御用ですか?」
「…中岡君だ」
「え、慎ちゃんにですか?」
そう聞き返すと、小娘は困ったように眉尻を下げた。
「あの…慎ちゃんはさっき土佐藩邸に行っちゃったんです。なので、すぐには帰って来ないと思います…」
「…ならば、待たせて貰おう」
「え、あっ大久保さん、ちょっと待って下さい!」
玄関に上がり込み、少し慌てふためく小娘の横を通り過ぎる。
後ろからぱたぱたと聞こえてくる小さな足音を片耳に聞きながら、私は通り慣れた廊下に足を進めた。
「―何だか変わったお菓子ですね。頂いても良いんですか?」
「ああ。…雪間草だ」
「ゆきまそう?」
小さな菓子を両手で包みながら、小娘はますます首を傾けた。
「…まあ、意味など知らなくても良いだろう。お前は花より団子だからな」
憎まれ口を叩けば、瞬く間に表情を強張らせる。
その様子に含み笑いしていると、小娘の頬が不機嫌そうに膨れ上がった。
「そうむくれるな。さっさと茶でも淹れて来い」
「…!今淹れてきます!」
そう短く答えると、小娘はこちらを一瞥して広間を後にした。
「…遅い」
既に小娘が部屋を出てから四半刻が経とうとしている。
居ても立っても居られず厨に足を運ぶと、壁に寄り掛かって微睡む姿が目に付いた。
「おい。こんなところで寝るな」
腰を落として軽く揺り動かすも、一向に目を覚ます気配はない。
ふっと一息を吐きその身体を持ち上げると、首に掛かっていた髪がさらりと手に落ちた。
「…そういうことか」
雪白の首に映える幾つもの独占の証。
それは、過刻に控制していったあの男のものに相違なかった。
「見せ付けてくれるな」
そんな独り言を漏らしながら、首筋に唇を押し当てる。
すると、立ち所に鮮紅色の印がくっきりと姿を現した。
(あの男は、気付くだろうか…?)
つっとそれに触れ軽笑を浮かべていると、小娘の瞼がゆるゆると開き始めた。
「あ…れ…?大久保さん…?」
たどたどしい声に我に変えると、小さな身体を抱き抱えたまま立ち尽くしていたことに気が付く。
何事もなかったかのように小娘を下ろせば、その顔が一気に青ざめるのが分かった。
「私…眠っちゃってたんですか…?」
「ああ。ずっと待っていたんだがな」
「ご、ごめんなさい!渋茶にしようと時間を置いてたら、つい…。今お持ちします」
「…いや」
茶出しを持つ手を止めれば、不安そうな顔付きの小娘と目が合う。
その顔に態と大きく溜息を吐き、私は厨の出入口に手を掛けた。
「茶はもう良い。所用を思い出した」
「…今日は本当にすみませんでした」
小娘はそう口にすると、申し訳なさそうに頭を垂れる。するとその時、戸が鈍い音を立てて開け放たれた。
「あ、武市さん、お帰りなさい」
「ただいま。…大久保さんは今お帰りですか?」
「…ああ」
見る見るうちに顔を綻ばせる小娘を横目で見遣れば、悪感が胸に芽生える。
そしてその矛先は、同じように笑みを浮かべる面前の男へと向けられた。
「時に武市君、」
不思議そうな面持ちを見せる彼に、嫌みを含ませながら声を落とす。
「あの柔肌は実に触り心地が良いな」
「っ…!」
ふっと口許を緩ませると、取り乱す武市君と首を傾げる小娘が目に映る。
(これぐらいしても罰は当たるまい)
そんなことを考えながら、私は往来へと一歩踏み出した。
雪間草(春の季語)…春になると地面を覆っていた雪が融け始め、土がのぞくようになることを「雪間」と言い、更にこの雪間に萌え出でた草を「雪間草」と呼ぶ。
雪間草(京菓子)…上記の様子を見立てた小倉餡入りの菓子。