恋風2(中編)


一人井戸に来た私は、とっくに冷えた手を水に浸けたまま、ぼんやりと庭を眺めていた。
もう夜も更けてきたというのに、相変わらず流れる風は暖かい。けれど、昼間はあんなに心地好かった風も、今の私には生温く纏わりつくようだった。

(富子さん…。綺麗な人だったな…)

抱え込んだ膝に顔を埋め、私は少し前のことを思い出した。
あんな素敵な女性と半平太さんなら、きっと誰が見てもお似合いの二人に映るだろう。

(じゃあ、私は…?)

考えても仕方のないことだと分かっていても、それを想像せずにはいられなかった。私はひとしきり落ち込むと、左手のハンカチに目を遣った。

(…明日洗って返しに行こう)

彼女が貸してくれた薄紫色のそれを畳み直すと、ふんわりと白粉の香りが鼻を掠めた。


自室に戻った私は、早々に布団を敷き、眠気が訪れるのを待っていた。けれど、いくら待っていても一向に目は冴えたままだった。

(半平太さん、まだかな…)

寝返りを打ち、隣室の襖に目を向ける。
部屋の光が漏れていないことを考えると、きっと彼は富子さんを送りに行ったまま、まだ帰って来ていないのだということが想像出来た。

(早く会いたい…)

そう思いながら瞳を閉じようとした時、すっと障子が開かれる。その音に身体の向きを変えると、少し骨張ったあの人の手が頬に触れた。

「…起こしちゃったかな」

その柔らかな声に、私は安心して自分の手を頬に重ねた。

「大丈夫です。起きてましたから」

私は布団から起き上がり、傍に座る半平太さんを見上げた。
暗闇で彼の顔は見えないけれど、彼の手の温かさは私の心を解してくれるようだった。

「手、痛くない?」

半平太さんの手が頬から外れたと思うと、今度は右の掌が点々と熱くなる。それが彼の唇であるとわかるのに、そう時間は掛からなかった。

「んっ…!もう平気ですよ。痛みもないです」
「そうか…良かった」

唇が離れると、彼の手が私の頭に回り、ぽすっと音を立てる。
けれど、いつもなら幸せなこの一瞬が、私の不安を更に煽った。

「今日は疲れただろう。ゆっくりお休み」

そう言って軽くキスをし、彼は二人の部屋を隔てている襖に手を掛けた。

「お休みなさい…」

やっとのことで返事をすると、私は掛布団の中に潜り込んだ。

(どうして…?)

本当は、彼に聞きたいことがたくさんあった。なのにそれが出来なかったのは、あの人の影が頭を過ったからだった。

胸許に引き寄せられた時に感じた甘い匂い。それは、彼女のあのハンカチと同じ香りだった。


「―武市、入ってええか?」

小娘と僕の部屋を仕切る襖を閉め、一息吐くと、龍馬が怪訝そうな顔で部屋に上がり込んできた。

「こんな遅くにどうした。何かあったのか」
「ああ。…富子さんのことじゃ」

近くの座布団に腰を下ろすと、急に龍馬の視線が一点に止まった。疑問に思いつつもその先を見ると、どうやらそれは僕の胸許に注がれているようだった。

「これは何じゃ」

今にも殴り掛かりそうな勢いで僕の胸ぐらを掴むと、龍馬が言葉を荒げた。その台詞に隊服を見ると、胸許が白く汚れていることに気が付いた。

「…彼女がさっき転びそうになってな。受け止めた時に付いたんだろう」

手をはね除け、掴まれた服を直しながらそう答えると、龍馬はばつが悪そうに顔を背けた。

「手荒なことをしてすまん。よもやと思っての…」

冗談半分で手を出すことはあっても、あんな真剣な眼差しで掴み掛かる龍馬を見るのは久方振りのことだった。そしてそれは、小娘が絡んでいるからだろうと容易に察しがついた。

「…僕が愛しているのは小娘だけだ。誰が現れようとも、それは変わらない」

龍馬は僕の目を見据えたまま黙り込み、暫くするとやれやれと言いながら腰を上げた。

「その言葉が聞けて良かったぜよ。最も、おんしにほがな器用な真似が出来るとも思ってやせんが」

そう笑い飛ばすと、部屋を出る直前、龍馬はまた複雑そうな表情を浮かべた。

「じゃが、それは小娘さんに伝わっているんかの?わしは、時には目に見える証も必要と思うぜよ」

そう言い残し、龍馬は自室へと戻って行った。僕は静かになった部屋で、今の言葉を一人反芻していた。

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