恋風1(中編)
封建的な身分制度が続くこの時代に、縁談が珍しくないことは分かっている。だけどその人の存在は、私にとってあまりに衝撃的だった。
「…小娘さん」
私は廊下の板目に顔を向けたまま、龍馬さんの声掛けに反応することが出来なかった。そんな状態が暫く続いた頃、口をつぐんでいた彼が私の手をそっと包(くる)めた。
「不安にさせてすまなかった。武市と彼女の縁談は、はやずっと昔の話ぜよ。やき、気にすることはないがで」
「…はい」
漸く言葉が出てきたと思ったら、まるで自分の声とは思えないくらい掠れていた。私は結んでいた唇の端を上げると、彼の手をやんわりと肩から外した。
「私、二人にお茶を淹れて来ますね」
笑顔を作ったつもりだったけれど、龍馬さんの表情はぎこちなかった。
けれど私は、目の前の人にこれ以上心配を掛けたくなくて、急ぎ足でその場を立ち去った。
お盆を持つ手の震えと同時に、二つの茶飲みが微かに揺れる。私は煌々とする部屋の前に足を畳み、横にお盆を置くと、小さく深呼吸をしてから声を投げた。
「…失礼します」
襖を開く音に合わせて、二人の視線が私に集中する。その瞬間、紅を引いた綺麗な唇が、自然と私の目を惹き付けた。
「ああ、ありがとう」
そう声を掛けてくれた半平太さんの顔付きは、今し方別れた時のまま固い。それに加えて、しんとなった部屋の空気は更に私を緊張させた。
二人の前にお茶とお菓子を並べ、腰を上げようとすると、半平太さんが静かに口を開く。
「こちらは、島村富子さん。僕と同じ土佐の出の娘さんだ」
半平太さんの言葉に向きを変えて座り直すと、彼女は正座したまま身体を傾けた。未だその顔をまともに見れない私には、彼女がどんな人なのかはわからない。けれども、膝の上に重ねられた彼女の白やかな両手は、思わず見入ってしまうくらい綺麗だった。
「は、初めまして…。名無し小娘です」
私も彼女に向かって頭を下げると、富子さんはふふっと小さく笑んだ。
「可愛い娘さんだこと。ここで働いちゅうんなが?」
「いえ…えっと…、」
どう説明しようか私が考えあぐねていると、隣から半平太さんの声が聞こえてきた。
「小娘さんには事情が合ってね。彼女が里に帰るまで、共に暮らしている」
「え?…ここで一緒に?」
ああ、と短く肯定した彼が意外だったのか、彼女はそれ以上何も聞いて来なかった。一方私は、今の半平太さんの言葉が頭の中をぐるぐると回っていて、それを気にする余裕はなかった。
「…それにしたち、武市さんは初めてお会いした時とちっともお変わりないがでね」
「そんなことは…。だが、君も変わらないな」
そう話す半平太さんを見上げると、彼は柔らかな笑みを湛えていた。その表情を向けている先が目の前の彼女だと思うと、私はショックを隠せなかった。
「あ…それじゃ、私はこれで…」
そう言い掛け立ち上がろうとすると、私は近くにあった彼の茶飲みを倒してしまった。湯気を立てていたお茶は、私の着物と畳を見る見るうちに濡らしていく。
「熱っ…!」
「小娘!」
お茶を被ってしまった右手は赤く腫れ、じんじんと痛み出す。
けれど今の私は、そんなことより早くこの場から立ち去りたい気持ちでいっぱいだった。
「ご、ごめんなさい!今片付けます」
今度こそ立ち上がろうとすると、左手をぎゅっと握られる。私は不思議に思いながらその先を辿ると、あの綺麗な白い手が目に留まった。
「ここはあしに任せとおせ。それより、手をよお見せて」
彼女は隣に置いていた巾着からハンカチのような物を取り出すと、私の濡れた手を拭ってくれた。
思わず顔を上げると、富子さんはにっこりとしながらこちらを見ている。私は、ここにして漸く彼女の顔を直視することとなった。
涼やかな瞳に宿る上品さに反して、紅く綺麗に染まった口許は妖艶さを湛えている。加えて、彼女の落ち着き払った雰囲気からは、私が思い描く大人の女性の美しさが滲み出ていた。