ずっと傍に(2)


「…!」
「唇…ちょっと痛そうです。食べ物が原料なら、口に塗っても大丈夫ですよね?」

彼女の細い指が、僕の唇を丁寧になぞっていく。
すると、まるで全神経がそこに集中したかのように、僕の唇は一気に熱を帯びた。

「これって浸透するの早いんですね。もう大丈夫ですよ!」

そう言ってにこやかな表情を浮かべると、小娘さんは人差し指に残ったそれを自分の唇に押し当てる。
その半開きになった口許はどこか色めいた雰囲気を放っていて、それを見た僕の胸はどくんと大きな鼓動を鳴らした。

「…武市さん?どうかしました?」

思わず何も言葉を発せずにいると、彼女がにじり寄ってくる。
濡れ色を帯びた小娘さんの唇から意識的に目を逸らしながら、僕は違う話題を見つけるべくそれとなく部屋を見渡す。
すると、彼女の文机に赤茶けた書物が載っているのがふと目に留まった。

「小娘さん、あれは何だい?」

僕の視線の先を見遣ると、小娘さんはぱっと明るい表情を溢す。
彼女はその書を両手で持ちながら、嬉しそう僕に答えた。

「これ、蔵で見つけたんです!私、この本の内容は大体知っているので、読む練習になるかなと思って…。毎日ちょっとずつ読んでるんです」
「…竹取物語か」

題目がほとんど擦れてしまっているその書物を、小娘さんはどこか懐かしそうに捲る。
けれど暫くして、その表情はどことなく暗い影を落とし始めた。

「でも、今ちょっとわからないところがあって…。なかなか先に進めないんです」

ぱたんと音を立ててそれを閉じると、彼女は再びそれを元の場所に戻そうとする。
思わずその手を止めた僕は、小娘さんの顔を覗き込みながら書物を開いた。

「僕で良ければ、教えてあげるよ」
「え、で、でも…武市さん、お忙しいですし…」
「…僕じゃ不満かい?」

態と悲しそうな声色で問い掛ければ、小娘さんは吃驚した様子で手を振った。

「いえ、まさか!武市さんが先生だったら安心ですっ」
「そうかい?それなら良かった」

つい嬉しい気持ちを抑え切れずに小娘さんに微笑み掛けると、彼女もおずおずと返事をしてくれる。

「よ、宜しくお願いします。…武市先生」


―それから僕らは、少しずつ竹取物語を読み進めていった。
紙を繰るごとに、小娘さんがこの物語に夢中になっているのが分かる。
けれども彼女とは裏腹に、物語が佳境に入るにつれて僕の心にはどんどん暗雲が立ち込めていった。

「…帝は、かぐや姫のことが本当に好きだったんですね。三年も和歌のやり取りをしていたなんて…」

いよいよ終幕が近付いてくると、小娘さんは物思いに耽った表情で溜息を溢す。
辛そうにする彼女の顔を見ながら、この後の話を思い起こすと、僕の胸は張り裂けそうになった。

「小娘さん、」
「はい、」
「…悪いが、この続きは他の人に読んで貰ってくれ」
「え…?」

僕は書物を閉じ、努めて笑顔を作る。

「もう今日は遅いからね。出来れば僕が続きを教えてあげたいんだが…。生憎、明日は帰って来られそうにないから」

言い訳染みた台詞が、すらすらと口を吐く。
そんな僕を黙って見上げていた彼女は、暫くして躊躇いながら口を開いた。

「あ、あの…私は何時でも大丈夫です…。なので、出来れば武市さんに教えて頂きたいんですが…」
「…」
「無理、ですか…?」
「…すまない」

僕は彼女の顔を見ることが出来ないまま、廊下に通じる障子を開けた。

(小娘もいつか、自分の世界に還る日が来るんだな…)

逃れようのない現実を胸に抱えながら空を仰ぐと、鋭く光を放つ満月が僕を見下ろしている。
それは、かぐや姫が還った夜を連想させる美しさだった。


「…はぁ」

翌日、僕は小娘さんとほとんど会話を交わさないまま、長州藩邸を訪れた。
けれども、昨日の彼女との別れ際のことを考えると、会合の内容はほとんど頭に入って来ない。

「武市君が溜息とは珍しいね。何か悩み事かい?」

穏やかな笑みを湛えた桂さんの声が、がらんとした部屋に響く。
その声音に周りを見渡せば、いつの間にか会合が終わっていたことに気が付いた。

「いえ、そういう訳ではないのですが…」
「…ふふ、君の頭を占めているのは、この人、かな」

そう言うと、桂さんは懐から一枚の文を僕に差し出した。

「先程、寺田屋に寄った際に小娘さんから預かったんだ。武市君に渡して欲しいとね」
「…小娘さんが?」
「ああ、今夜君が帰って来ないと思っていたみたいだからね。何か、伝えたいことがあったんじゃないかな」

ゆっくりとそれを開くと、慣れないながらも丁寧に書かれた文字が並んでいる。その文を一読した僕は、元通りにそれを折り畳み、その場に立ち上がった。

「今宵は、これで失礼いたします」
「大丈夫かい?泊まっていってくれても良いんだよ」
「ありがとうございます。ですが、この文の意味が気になりまして」

僕が懐にそれを忍ばせ答えると、桂さんはそれ以上引き留めることはしなかった。


「た、武市さん…?今夜はお帰りにならないはずじゃ…。きゃっ!」

僕の姿に少し驚いた様子の彼女を抱き締めると、可愛い声が漏れる。
その耳許に口を近付けながら、僕は小娘さんにあの文の意味を問うた。

「あ、あれは…!その、」

しどろもどろになる彼女は顔を逸らそうと試みるが、僕はその頬を両手でしっかりと包み込む。
すると、暫くして小娘さんがぽつりぽつりと話し始めた。

「私も、かぐや姫の気持ちが少し分かるような気がしたんです」
「…うん」
「だから…私も彼女と同じ気持ちなんだって知って欲しくて…。それであれを書きました」

そう言って僕の身体から少し離れると、小娘さんはふんわりと笑顔を浮かべた。

「私…ずっと武市さんの傍にいたいです…」

夢のような彼女の言葉に、僕は再び小娘さんを掻き抱く。その瞬間、あの文が足許にぱさりと落ちる音と、彼女の可愛い悲鳴が僕の耳に響いた。

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