clap(12/4〜1/11)
「お帰りなさい、武市さん」
「…ああ、ただいま」
そう言って微笑む彼の表情は、どこかぐったりしているように見える。
いつもの武市さんなら、私と会った途端に恥ずかしい台詞を言うのに、今日は黙って自室に行ってしまった。
(今日は長州藩邸で会合だったはずだけれど、何かあったのかな…?)
何とはなしに不安に駆られた私は、彼の好きなお菓子とお茶を持って部屋を訪ねた。
「武市さん、お茶をお持ちしました」
「ああ、ありがとう。入って」
紙障子を引き彼の顔を一瞥すると、やはり今一つ元気がない様子だった。
私は書き物を止めた武市さんの傍に寄り、お茶とお菓子の乗った盆を畳に置いた。
「今日の会合、何かあったんですか…?」
遠慮勝ちに尋ねてみると、彼は憂いに沈んだ顔で湯飲みから口を離した。
無言になる武市さんを見ていると、私の心もどんどん曇っていく。
居た堪れない気持ちになり立ち上がろうとすると、彼の手がそれを引き止めた。
「…君は、異国の挨拶を知ってる?」
「異国の…挨拶ですか…?」
出し抜けにされた質問に黙考していると、彼が私の手を引っ張って立ち上がった。
そしてその瞬間―
「た、武市さんっ…!」
私は彼の腕の中にいて、身動きが取れなくなっていた。
「…今日、異国の挨拶を教わってね。少し、相手になってくれるかい?」
「そ、そんな…んっ」
突然の事態に困惑する私を余所に、彼の唇が両頬に触れる。
そしてそのまま頬を合わされ、身体が一気に熱くなった。
「…相変わらず君の頬は気持ち良いな」
頬に伝わる彼の熱が気持ち良くて、私の頭はぼうっとしてしまう。
(何だか恥ずかしいけど…ずっとこうしていたいな…)
時間を忘れて温もりに酔いしれていたその時、彼がそっと頬を離した。
「…君もしてくれる?」
「え…」
赤くなった顔で見上げると、私の手を彼は自分の頬に寄せた。
「ここに、口付け」
余りの恥ずかしさに私は顔を逸らそうとしたけれど、彼の細く長い指によってそれは叶わなかった。
観念した私は彼の両頬に軽くキスすると、顔を寄せようとした。
だけど、私の行動はまたしても彼に止められてしまう。
「…やっぱり、こっちの方が良いな」
そう言いながら指先で私の唇に触れると、彼の顔が近付いてきた。
キスされると思い咄嗟に目を瞑ったその時、突然障子が開いた。
「おいっ武市!俺の女に何してる!」
ものすごい勢いで怒鳴り込んできたのは高杉さんだった。
驚いた私は身体を離そうとしたけど、武市さんは手の力を緩めなかった。
「…無粋な。いきなり何ですか」
「それはこっちの台詞だ!珍しい菓子が手に入ったから来てみれば…。油断も隙もねぇ!」
私を渋々離し、無言のまま睨み合う二人。
その様子をおろおろしながら見守っていると、意味ありげな表情を浮かべた高杉さんが私に視線を向けた。
「なぁ、武市が誰にこの挨拶を教わったのか知りたくないか?」
「えっ…?」
「高杉さん!何をっ…」
高杉さんの発言に、武市さんは少し取り乱したようだった。
そう言えば、彼はどうしてこんな挨拶を知ってるんだろう。
私が考え込んでいると、にやりと笑った高杉さんが耳へ口を寄せた。
「今日の会合に乾さんが来てな。そりゃもう見物だったぞ!」
広間で待ってるからさっさと来いよと言って、高笑いしながら高杉さんは部屋を後にした。
「い、乾さんに教えて頂いたんですか…。それは大変でしたね…」
「ああ。でも、君のおかげで大分気分が良くなった」
そう言って、武市さんはもう一度私を抱き締める。
「た、武市さん、皆のところに行かないと…」
「うん。でも、続きがまだだろう?」
にこりとしながら、彼の顔が再び近付いてくる。
私は今度こそ誰も来ないことを祈りながら、ゆっくりと瞳を閉じた。