片想い(1)
一通り挨拶を終えた僕は、手持ちのワインを口に含んだ。
思ったより辛口の味わいに舌がぴりっとしたが、構わずそのまま流し込む。
酒は得意ではないが、今はカラカラになった喉を潤したかった。
時計を見ると、21時45分を示している。
我が社の創立100周年記念パーティーも、後15分で御開きだ。
(挨拶に回っただけで、終わってしまったな…)
溜息をつき、グラスを傾ける。
その時、女性のか細い声が耳に届き、思わず手を止めた。
「や、やめて下さい…」
声がした方に視線を向けると、酔った男が女性に絡んでいた。
よく見ると、それは懇意にしている会社の専務だった。
(全く…悪酔いとは傍迷惑だな)
僕はグラスを近くのテーブルに置き、二人に近付こうとした。
しかし、折悪しく営業本部長に声を掛けられてしまい、その場を動けなくなってしまった。
(…誰かが彼女を助けるだろう)
そう思い、ちらりと流し目で女性を見遣った。
だが、絡まれている女性と視線がぶつかった瞬間、僕の思考は停止してしまった。
ただの勘違いだったのかもしれない。
だけど、その瞳は僕に訴え掛けているような気がした。
―「助けて」と。
「ご無沙汰しております」
僕は早々に本部長との話を切り上げ、専務に話し掛けた。
彼はかなり酒を飲んでいるようで、上機嫌な様子だった。
適当に二言三言会話を交わし、僕は話を切り出した。
「実は、小社の営業本部長が是非お話しをしたいと申しておりまして。お取り込み中大変申し訳ございませんが、お相手願えませんでしょうか」
彼は二つ返事で営業本部長の方へ足を向けた。
僕はその様子を見届けた後、彼女に向き直った。
「…もう行ってしまったよ」
「あ、ありがとうございました…」
彼女の表情を見た僕は、思い掛けずどきりとした。
涙ぐんでいる彼女の大きな瞳は、シャンデリアによって光輝いていた。
(まるで宝石みたいだ…)
僕は慌てて彼女の瞳から視線を逸らし、ハンカチを差し出した。
「大変だったね」
「…はい。大切なお取引先と伺っていましたので、あまりはっきり言えなくて…」
彼女は涙を拭うと、僕ににっこりと微笑んだ。
その清らかな笑みに、またしても心臓が波打った。
「武市さん、ありがとうございます」
「…え?」
何故、僕の名前を知っているのだろう。
彼女とはどこかで会ったことがあっただろうか。
僕が考え込んでいると、彼女がぽっと頬を赤らめた。
「ご、ごめんなさい!あの、お会いするのは初めてです」
「君は、僕を知っているのか?」
「はい。…武市さんは有名ですから…」
俯きながら話す彼女の顔は、すっかり赤く染まっていた。
その様子が何とも可愛らしくて、微笑ましい気持ちになった。
「―名無し君、」
その時、こちらに向かって掛かった声に彼女が顔を上げた。
「すみません、少し失礼します」
彼女は僕に軽く会釈をして、その人物の元に駆け寄った。
彼女に声を掛けたのは、自社の副社長だった。
暫くして、彼女がジャケットとバッグを持って、僕の元に戻ってきた。
「これから仕事になっちゃいました」
「これから?」
「はい。先方の都合の良い日が他にないそうなんです」
彼女は僕のハンカチを大事そうにバッグに閉まった。
「ハンカチ、ありがとうございました。次にお会いした時にお返ししますね」
「…ああ」
「あ!これ、私の名刺です。ちゃんと自己紹介が出来なくてごめんなさい。それでは、失礼します」
彼女は出入口に向かって足早に去っていった。
僕はその姿を見送りながら、名刺に目を落とした。
「秘書課 名無し 小娘」
(名無しさんと言うのか…。名前通りの可愛い女性だな)
「あっ武市さん、見つけたっス!」
そんなことを考えていた僕に声を掛けて来たのは、同じ部署で働く中岡慎太郎だった。
彼もずっと姿を見せなかったことを考えると、僕と同じく挨拶に回っていたらしい。
「あれ?武市さん、顔が赤くないっスか?」
そう言われ、頬を触ると確かに熱くなっているような気がした。
「…慣れないワインを飲んだせいだろう」
そう答えた僕は、彼女が消えていった出入口をいつまでも見つめていた。