clap(5月27日〜10月23日)


穂先から滴(したた)った墨がぽたん、と音を立て、真っ新(まっさら)な薄紙に染みを作る。
これで何枚目になるだろう。
筆を染めてから優に一刻は経っているはずなのに、目の前の書状はちっとも仕上がる気配がない。

「龍馬さん、じっとしててください」
「そうは言うが...何やらこそばゆいのう」

楽しそうなふたりの密めきが耳を突く度、筆を持つ手が無意識に止まる。
一体何をしているのかー。
その答えは、後ろ手の襖を引けば容易に分かることだった。

「おんしはまっこと上手いのう。瞼がくっつきそうじゃき」
「ふふ、駄目ですよ。ちゃんとお布団で寝ないと」

廊下の方角に目を向けると、明かりがぼんやりと障子に透けている。
『夜更けに男と二人きりにならぬこと―』
約束の真意が伝わったのかは疑問だったが、彼女はあの日、素直に首を縦に振った。

だが今となっては、その約束も忘れ去られてしまったらしい。
いやそれとも―。相手が龍馬では話が別ということか。

『何かあったら遠慮なく頼ってくれてええ。わしはおんしの味方じゃき』

あの日、行き場を無くした彼女を笑顔で迎え入れた龍馬。
無論、親切心もあったのだろう。だが、持ち前の屈託ない笑みの裏に、蠱惑的な光が宿っていたのを僕は見逃さなかった。

『あ、ありがとうございます。よろしくお願いします』

彼女がそのことに気づいていたのか定かではない。
けれども、その言葉に答えるかのように、二人は事あるごとに互いの部屋を行き来するようになった。

(…僕は何に苛立っているんだ)

溜息混じりに筆を置くと、硯の墨はすっかり乾いていた。
今宵は早く床に就いた方が懸命かもしれない―。そう思ったとき、静かに障子が開く音がした。

「おやすみなさい、龍馬さん」

ささめくような声が耳に届き、廊下の軋む音が小さくなっていく。
やれやれ、漸く集中出来そうだ―だがそう思えたのは一瞬だけだった。

「武市さん…?まだ起きていらっしゃいますか?」

空耳かとも思えた。
けれども、障子に映る小柄な人影が目に入ったとき、最早勘違いだと疑うべくもなかった。

「…ああ、起きている。どうぞ」
「はい。失礼します」

すっと障子が開け放たれ、たおやかな白い手が現れる。
薄桃色の浴衣に身を包んだ彼女は、僕に歩み寄ると膝を合わせるように座り込んだ。

「…ごめんなさい。お手紙を書いていたんですね」
「いや。急ぎのものではない。それより、何かあったのか?」
「いえ…そういう訳じゃないんですが…。ただ武市さんとお話したいなと思って」

申し訳なさそうに文机を見ていた彼女は、そう話すや否や視線を下に向ける。その先は、自身の握った両手に向けられているように見えた。

「…そう。ちょうど良かった。僕も君に話したいことがあってね」
「はい?何でしょうか?」
「君は」

「僕とした約束を覚えているか?」
だが、喉まで出掛かかっていたその言葉が声になることはなく、代わりにとんでもない台詞が口を吐いた。

「龍馬のことが好きなのか?」
「…え?」

自分が何を言ったのか、俄かに理解出来なかった。
だがそれは彼女も同じだったのだろう。きょとんとした顔で僕を見返していた彼女は、見る見るうちに頬を赤く染めた。

「た、武市さん…?」
「ちがっ…今のは忘れてくれ…!」
「……。どうして、そんなこと聞くんですか?」

詰め寄るように距離を縮めた彼女は、僕の瞳を真っ直ぐに覗き込む。
その視線から逃れるように、僕は彼女の両肩を押し返した。

「君がっ…龍馬のことばかり頼っているからだ…!君は僕を頼ってここに来たんだろう!?なのに、どうして…」

こんなことを言うつもりなど微塵もなかった。
これではまるで、恋敵に嫉妬するただの子どもだ。しかし、一旦吐き出された言葉に訂正する余地は残されていなかった。

「…龍馬を頼るのであれば、無闇に他の男の部屋に来たりするんじゃない。つい今しがたも、楽しそうに話していたじゃないか」
「そ、そんなつもりじゃ…。それにあれは…。龍馬さんにお願いされたから…」
「…お願い?」
「はい、…これ、して欲しいって…」

両手をおずおずと開いた彼女は、顔を赤らめたままそれを僕に差し出した。
竹を削った細い棒状のそれは、先端だけが小さな杓子の形になっている。

「今日、簪(かんざし)屋さんに行ったら置いてあったんです。そのときに龍馬さんが買ってくれて…帰ったら耳掻きする約束だったんです」

ふふ、とぎこちない笑いを浮かべながら、彼女は更に口を開く。

「そしたら上手だって褒めてくれて…。だから武市さんにもしてあげたいなって思って」
「…え?」
「も…もし嫌じゃなければっ…その…。わたしの…」

視線を泳がせていた彼女は、意を決したようにぼそりと呟いた。

「ひ、膝の上に来てくれませんか…?」

思いも寄らない台詞に、羞恥が伝染する。よく見れば、膝の上に乗せている彼女の手も赤く染まっている。

「龍馬さんのことも武市さんのことも…皆のことも好きです…。だって、お兄さんみたいだから…」
「…兄、か」

膝に手を重ねると、彼女の身体がぴくっと揺れる。
見上げた瞳には、薄い涙の膜が張っているようにも見える。

「僕は兄では困る」
「え?」
「…いや。今は兄の方が好都合か」

独り言のような台詞を口にし、膝に頭を付けると、心地好い柔らかな感触が伝わってくる。

「もしものときは…お仕置き、させて貰うよ」
「そ、そんなっ」「兄の言うことは絶対だ。分かったね」

何故あんなにも心が波立っていたのか。
もし今宵彼女に会わなければ、この想いを自覚することはなかったかもしれない。

「武市さんは意地悪です…」
「うん?そうかな」

膨らんだ頬に手を伸ばすと、彼女が恥ずかしそうに微笑みかける。
さて、どんな理由を付けてお仕置きをしようか―。
頭に降ってくる心地好い声を聞きながら、僕はそっと瞼を閉じた。

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